った》した。戦勝国たるはずの斉の君臣一同ことごとく顫《ふる》え上ったとある。子路をして心からの快哉《かいさい》を叫ばしめるに充分な出来事ではあったが、この時以来、強国斉は、隣国《りんこく》の宰相としての孔子の存在に、あるいは孔子の施政《しせい》の下《もと》に充実して行く魯の国力に、懼《おそれ》を抱《いだ》き始めた。苦心の結果、誠にいかにも古代|支那《しな》式な苦肉の策が採られた。すなわち、斉から魯へ贈《おく》るに、歌舞《かぶ》に長じた美女の一団をもってしたのである。こうして魯侯の心を蕩《とろ》かし定公と孔子との間を離間《りかん》しようとしたのだ。ところで、更に古代支那式なのは、この幼稚な策が、魯国内反孔子派の策動と相《あい》俟《ま》って、余りにも速く効を奏したことである。魯侯は女楽に耽《ふけ》ってもはや朝《ちょう》に出なくなった。季桓子《きかんし》以下の大官連もこれに倣《なら》い出す。子路は真先に憤慨《ふんがい》して衝突《しょうとつ》し、官を辞した。孔子は子路ほど早く見切をつけず、なお尽《つ》くせるだけの手段を尽くそうとする。子路は孔子に早く辞《や》めてもらいたくて仕方が無い。師が臣節
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