うまでもない。
孔子の政策の第一は中央集権すなわち魯侯の権力強化である。このためには、現在魯侯よりも勢力を有《も》つ季・叔・孟・三|桓《かん》の力を削《そ》がねばならぬ。三氏の私城にして百雉《ひゃくち》(厚さ三|丈《じょう》、高さ一丈)を超《こ》えるものに※[#「后+おおざと」、第4水準2−90−11]《こう》・費《ひ》・成《せい》の三地がある。まずこれ等を毀《こぼ》つことに孔子は決め、その実行に直接当ったのが子路であった。
自分の仕事の結果がすぐにはっきりと現れて来る、しかも今までの経験には無かったほどの大きい規模で現れて来ることは、子路のような人間にとって確かに愉快《ゆかい》に違いなかった。殊《こと》に、既成《きせい》政治家の張り廻《めぐ》らした奸悪《かんあく》な組織や習慣を一つ一つ破砕《はさい》して行くことは、子路に、今まで知らなかった一種の生甲斐《いきがい》を感じさせる。多年の抱負《ほうふ》の実現に生々《いきいき》と忙《いそが》しげな孔子の顔を見るのも、さすがに嬉《うれ》しい。孔子の目にも、弟子の一人としてではなく一個の実行力ある政治家としての子路の姿が頼《たの》もしいものに映った。
費の城を毀《こわ》しに掛かった時、それに反抗して公山不狃《こうざんふちゅう》という者が費人を率い魯の都を襲うた。武子台に難を避けた定公の身辺にまで叛軍《はんぐん》の矢が及《およ》ぶほど、一時は危かったが、孔子の適切な判断と指揮とによって纔《わず》かに事無きを得た。子路はまた改めて師の実際家的|手腕《しゅわん》に敬服する。孔子の政治家としての手腕は良く知っているし、またその個人的な膂力の強さも知ってはいたが、実際の戦闘に際してこれほどの鮮《あざ》やかな指揮ぶりを見せようとは思いがけなかったのである。もちろん、子路自身もこの時は真先に立って奮い戦った。久しぶりに揮《ふる》う長剣の味も、まんざら棄《す》てたものではない。とにかく、経書の字句をほじくったり古礼を習うたりするよりも、粗《あら》い現実の面と取組み合って生きて行く方が、この男の性に合っているようである。
斉との間の屈辱的《くつじょくてき》媾和《こうわ》のために、定公が孔子を随《したが》えて斉の景公と夾谷《きょうこく》の地に会したことがある。その時孔子は斉の無礼を咎《とが》めて、景公始め群卿諸大夫を頭ごなしに叱咤《しった》した。戦勝国たるはずの斉の君臣一同ことごとく顫《ふる》え上ったとある。子路をして心からの快哉《かいさい》を叫ばしめるに充分な出来事ではあったが、この時以来、強国斉は、隣国《りんこく》の宰相としての孔子の存在に、あるいは孔子の施政《しせい》の下《もと》に充実して行く魯の国力に、懼《おそれ》を抱《いだ》き始めた。苦心の結果、誠にいかにも古代|支那《しな》式な苦肉の策が採られた。すなわち、斉から魯へ贈《おく》るに、歌舞《かぶ》に長じた美女の一団をもってしたのである。こうして魯侯の心を蕩《とろ》かし定公と孔子との間を離間《りかん》しようとしたのだ。ところで、更に古代支那式なのは、この幼稚な策が、魯国内反孔子派の策動と相《あい》俟《ま》って、余りにも速く効を奏したことである。魯侯は女楽に耽《ふけ》ってもはや朝《ちょう》に出なくなった。季桓子《きかんし》以下の大官連もこれに倣《なら》い出す。子路は真先に憤慨《ふんがい》して衝突《しょうとつ》し、官を辞した。孔子は子路ほど早く見切をつけず、なお尽《つ》くせるだけの手段を尽くそうとする。子路は孔子に早く辞《や》めてもらいたくて仕方が無い。師が臣節を汚《けが》すのを懼れるのではなく、ただこの淫《みだ》らな雰囲気《ふんいき》の中に師を置いて眺《なが》めるのが堪《たま》らないのである。
孔子の粘《ねば》り強さもついに諦めねばならなくなった時、子路はほっと[#「ほっと」に傍点]した。そうして、師に従って欣《よろこ》んで魯の国を立退《たちの》いた。
作曲家でもあり作詞家でもあった孔子は、次第に遠離《とおざか》り行く都城を顧《かえり》みながら、歌う。
かの美婦の口には君子ももって出走すべし。かの美婦の謁《えつ》には君子ももって死敗すべし。…………
かくて、爾後《じご》永年に亘《わた》る孔子の遍歴《へんれき》が始まる。
七
大きな疑問が一つある。子供の時からの疑問なのだが、成人になっても老人になりかかってもいまだに納得できないことに変りはない。それは、誰もが一向に怪《あや》しもうとしない事柄《ことがら》だ。邪《じゃ》が栄えて正が虐《しいた》げられるという・ありきたりの事実についてである。
この事実にぶつかるごとに、子路は心からの悲憤《ひふん》を発しないではいられない。なぜだ? なぜそうなのだ? 悪は一時栄えても結局
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