と同じような工合である。退いて考えてみて、自ら苦笑することがある位だ。

 だが、これほどの師にもなお触れることを許さぬ胸中の奥所がある。ここばかりは譲《ゆず》れないというぎりぎり結著[#「ぎりぎり結著」に傍点]の所が。
 すなわち、子路にとって、この世に一つの大事なものがある。そのものの前には死生も論ずるに足りず、いわんや、区々たる利害のごとき、問題にはならない。侠といえばやや軽すぎる。信といい義というと、どうも道学者流で自由な躍動《やくどう》の気に欠ける憾《うら》みがある。そんな名前はどうでもいい。子路にとって、それは快感の一種のようなものである。とにかく、それの感じられるものが善きことであり、それの伴《ともな》わないものが悪《あ》しきことだ。極めてはっきりしていて、いまだかつてこれに疑を感じたことがない。孔子の云う仁とはかなり[#「かなり」に傍点]開きがあるのだが、子路は師の教の中から、この単純な倫理観を補強するようなものばかりを選んで摂《と》り入れる。巧言令色足恭《コウゲンレイショクスウキョウ》、怨《ウラミ》ヲ匿《カク》シテ其《ソ》ノ人ヲ友トスルハ、丘|之《コレ》ヲ恥《ハ》ヅ とか、生ヲ求メテ以《モッ》テ仁ヲ害スルナク身ヲ殺シテ以テ仁ヲ成スアリ とか、狂者ハ進ンデ取リ狷者《ケンジャ》ハ為《ナ》サザル所アリ とかいうのが、それだ。孔子も初めはこの角《つの》を矯《た》めようとしないではなかったが、後には諦《あきら》めて止《や》めてしまった。とにかく、これはこれで一|匹《ぴき》の見事な牛には違いないのだから。策《むち》を必要とする弟子もあれば、手綱《たづな》を必要とする弟子もある。容易な手綱では抑えられそうもない子路の性格的欠点が、実は同時にかえって大いに用うるに足るものであることを知り、子路には大体の方向の指示さえ与えればよいのだと考えていた。敬ニシテ礼ニ中ラザルヲ野トイヒ、勇ニシテ礼ニ中ラザルヲ逆トイフ とか、信ヲ好ンデ学ヲ好マザレバソノ蔽《ヘイ》ヤ賊《ゾク》、直ヲ好ンデ学ヲ好マザレバソノ蔽ヤ絞《カウ》 などというのも、結局は、個人としての子路に対してよりも、いわば塾頭格《じゅくとうかく》としての子路に向っての叱言《こごと》である場合が多かった。子路という特殊な個人に在ってはかえって魅力《みりょく》となり得るものが、他の門生|一般《いっぱん》についてはおおむね害となることが多いからである。

     六

 晋《しん》の魏楡《きゆ》の地で石がもの[#「もの」に傍点]を言ったという。民の怨嗟《えんさ》の声が石を仮りて発したのであろうと、ある賢者が解した。既《すで》に衰微《すいび》した周室は更に二つに分れて争っている。十に余る大国はそれぞれ相結び相闘って干戈《かんか》の止む時が無い。斉侯《せいこう》の一人は臣下の妻に通じて夜ごとその邸《やしき》に忍《しの》んで来る中についにその夫に弑《しい》せられてしまう。楚《そ》では王族の一人が病臥《びょうが》中の王の頸《くび》をしめて位を奪《うば》う。呉《ご》では足頸を斬取《きりと》られた罪人共が王を襲《おそ》い、晋では二人の臣が互《たが》いに妻を交換《こうかん》し合う。このような世の中であった。
 魯の昭公は上卿《じょうけい》季平子《きへいし》を討とうとしてかえって国を逐《お》われ、亡命七年にして他国で窮死《きゅうし》する。亡命中帰国の話がととのいかかっても、昭公に従った臣下共が帰国後の己《おのれ》の運命を案じ公を引留めて帰らせない。魯の国は季孫・叔孫《しゅくそん》・孟孫《もうそん》三氏の天下から、更に季氏の宰《さい》・陽虎の恣《ほしいまま》な手に操られて行く。
 ところが、その策士陽虎が結局己の策に倒れて失脚《しっきゃく》してから、急にこの国の政界の風向きが変った。思いがけなく孔子が中都の宰として用いられることになる。公平無私な官吏《かんり》や苛斂誅求《かれんちゅうきゅう》を事とせぬ政治家の皆無《かいむ》だった当時のこととて、孔子の公正な方針と周到な計画とはごく短い期間に驚異的《きょういてき》な治績を挙げた。すっかり驚嘆《きょうたん》した主君の定公が問うた。汝の中都を治めし所の法をもって魯国を治むればすなわちいかん? 孔子が答えて言う。何ぞ但《ただ》魯国のみならんや。天下を治むるといえども可ならんか。およそ法螺《ほら》とは縁《えん》の遠い孔子がすこぶる恭《うやうや》しい調子で澄《す》ましてこうした壮語を弄《ろう》したので、定公はますます驚いた。彼は直ちに孔子を司空に挙げ、続いて大司寇《だいしこう》に進めて宰相《さいしょう》の事をも兼《か》ね摂《と》らせた。孔子の推挙で子路は魯国の内閣書記官長とも言うべき季氏の宰となる。孔子の内政改革案の実行者として真先《まっさき》に活動したことは言
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