実を軽蔑せず、与えられた範囲で常に最善を尽くすという師の智慧《ちえ》の大きさも判るし、常に後世の人に見られていることを意識しているような孔子の挙措《きょそ》の意味も今にして始めて頷けるのである。あり余る俗才に妨げられてか、明敏子貢には、孔子のこの超時代的な使命についての自覚が少い。朴直《ぼくちょく》子路の方が、その単純極まる師への愛情の故であろうか、かえって孔子というものの大きな意味をつかみ得たようである。
 放浪の年を重ねている中に、子路ももはや五十歳であった。圭角《けいかく》がとれたとは称し難いながら、さすがに人間の重みも加わった。後世のいわゆる「万鍾《ばんしょう》我において何をか加えん」の気骨も、炯々たるその眼光も、痩浪人《やせろうにん》の徒《いたず》らなる誇負《こふ》から離れて、既に堂々たる一家の風格を備えて来た。

     十四

 孔子が四度目に衛を訪れた時、若い衛侯や正卿|孔叔圉《こうしゅくぎょ》等から乞《こ》われるままに、子路を推してこの国に仕えさせた。孔子が十余年ぶりで故国に聘《むか》えられた時も、子路は別れて衛に留まったのである。
 十年来、衛は南子夫人の乱行を中心に、絶えず紛争《ふんそう》を重ねていた。まず公叔戍《こうしゅくじゅ》という者が南子排斥を企《くわだ》てかえってその讒《ざん》に遭って魯に亡命する。続いて霊公の子・太子|※[#「萠+りっとう」、第3水準1−91−14]※[#「耳+貴」、第4水準2−85−14]《かいがい》も義母南子を刺《さ》そうとして失敗し晋に奔《はし》る。太子欠位の中に霊公が卒《しゅっ》する。やむをえず亡命太子の子の幼い輒《ちょう》を立てて後を嗣《つ》がせる。出公《しゅつこう》がこれである。出奔《しゅっぽん》した前太子※[#「萠+りっとう」、第3水準1−91−14]※[#「耳+貴」、第4水準2−85−14]は晋の力を借りて衛の西部に潜入《せんにゅう》し虎視眈々《こしたんたん》と衛侯の位を窺う。これを拒《こば》もうとする現衛侯出公は子。位を奪《うば》おうと狙《ねら》う者は父。子路が仕えることになった衛の国はこのような状態であった。
 子路の仕事は孔家《こうけ》のために宰として蒲《ほ》の地を治めることである。衛の孔家は、魯ならば季孫氏に当る名家で、当主孔叔圉はつとに名大夫の誉《ほまれ》が高い。蒲は、先頃南子の讒に遭って亡
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