、霊公の所から孔子へ使が来た。車で一緒《いっしょ》に都を一巡《いちじゅん》しながら色々話を承《うけたまわ》ろうと云う。孔子は欣んで服を改め直ちに出掛けた。
 この丈《たけ》の高いぶっきらぼう[#「ぶっきらぼう」に傍点]な爺《じい》さんを、霊公が無闇《むやみ》に賢者として尊敬するのが、南子には面白くない。自分を出し抜いて、二人同車して都を巡《めぐ》るなどとはもっての外である。
 孔子が公に謁し、さて表に出て共に車に乗ろうとすると、そこには既に盛装《せいそう》を凝《こ》らした南子夫人が乗込んでいた。孔子の席が無い。南子は意地の悪い微笑を含《ふく》んで霊公を見る。孔子もさすがに不愉快になり、冷やかに公の様子を窺《うかが》う。霊公は面目無げに目を俯《ふ》せ、しかし南子には何事も言えない。黙《だま》って孔子のために次の車を指《ゆび》さす。
 二乗の車が衛の都を行く。前なる四輪の豪奢《ごうしゃ》な馬車には、霊公と並《なら》んで嬋妍《せんけん》たる南子夫人の姿が牡丹《ぼたん》の花のように輝《かがや》く。後《うしろ》の見すぼらしい二輪の牛車には、寂《さび》しげな孔子の顔が端然《たんぜん》と正面を向いている。沿道の民衆の間にはさすがに秘《ひそ》やかな嘆声《たんせい》と顰蹙《ひんしゅく》とが起る。
 群集の間に交って子路もこの様子を見た。公からの使を受けた時の夫子の欣びを目にしているだけに、腸《はらわた》の煮《に》え返る思いがするのだ。何事か嬌声《きょうせい》を弄《ろう》しながら南子が目の前を進んで行く。思わず嚇《かっ》となって、彼は拳を固め人々を押分けて飛出そうとする。背後《うしろ》から引留める者がある。振切《ふりき》ろうと眼を瞋《いか》らせて後を向く。子若《しじゃく》と子正《しせい》の二人である。必死に子路の袖《そで》を控《ひか》えている二人の眼に、涙の宿っているのを子路は見た。子路は、ようやく振上げた拳を下す。

 翌日、孔子等の一行は衛を去った。「我いまだ徳を好むこと色を好むがごとき者を見ざるなり。」というのが、その時の孔子の嘆声である。

     十

 葉公《しょうこう》子高《しこう》は竜《りゅう》を好むこと甚だしい。居室にも竜を雕《ほ》り繍帳《しゅうちょう》にも竜を画き、日常竜の中に起臥《きが》していた。これを聞いたほん[#「ほん」に傍点]物《もの》の天竜が大きに欣んで
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