の》が身に引受けること。僭越《せんえつ》ながらこれが自分の務《つとめ》だと思う。学も才も自分は後学の諸才人に劣《おと》るかも知れぬ。しかし、いったん事ある場合真先に夫子のために生命を抛《なげう》って顧みぬのは誰よりも自分だと、彼は自ら深く信じていた。

     八

「ここに美玉あり。匱《ひつ》に※[#「韋+榲のつくり」、第3水準1−93−83]《おさ》めて蔵《かく》さんか。善賈《ぜんか》を求めて沽《う》らんか。」と子貢が言った時、孔子は即座《そくざ》に、「これを沽らん哉《かな》。これを沽らん哉。我は賈《あたい》を待つものなり。」と答えた。
 そういうつもりで孔子は天下周遊の旅に出たのである。随った弟子達も大部分はもちろん沽りたいのだが、子路は必ずしも沽ろうとは思わない。権力の地位に在って所信を断行する快さは既に先頃の経験で知ってはいるが、それには孔子を上に戴《いただ》くといった風な特別な条件が絶対に必要である。それが出来ないなら、むしろ、「褐《かつ》(粗衣《そい》)を被《き》て玉を懐《いだ》く」という生き方が好ましい。生涯《しょうがい》孔子の番犬に終ろうとも、いささかの悔《くい》も無い。世俗的な虚栄心《きょえいしん》が無い訳ではないが、なまじいの仕官はかえって己《おのれ》の本領たる磊落《らいらく》闊達を害するものだと思っている。

 様々な連中が孔子に従って歩いた。てきぱきした実務家の冉有《ぜんゆう》。温厚の長者|閔子騫《びんしけん》。穿鑿《せんさく》好きな故実家の子夏《しか》。いささか詭弁派的《きべんはてき》な享受家《きょうじゅか》宰予《さいよ》。気骨《きこつ》稜々《りょうりょう》たる慷慨家《こうがいか》の公良孺《こうりょうじゅ》。身長《みのたけ》九尺六寸といわれる長人孔子の半分位しかない短矮《たんわい》な愚直者《ぐちょくしゃ》子羔《しこう》。年齢から云っても貫禄《かんろく》から云っても、もちろん子路が彼等の宰領格《さいりょうかく》である。
 子路より二十二歳も年下ではあったが、子貢という青年は誠に際立った才人である。孔子がいつも口を極めて賞《ほ》める顔回《がんかい》よりも、むしろ子貢の方を子路は推したい気持であった。孔子からその強靱《きょうじん》な生活力と、またその政治性とを抜き去ったような顔回という若者を、子路は余り好まない。それは決して嫉妬《しっと》では
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