った》した。戦勝国たるはずの斉の君臣一同ことごとく顫《ふる》え上ったとある。子路をして心からの快哉《かいさい》を叫ばしめるに充分な出来事ではあったが、この時以来、強国斉は、隣国《りんこく》の宰相としての孔子の存在に、あるいは孔子の施政《しせい》の下《もと》に充実して行く魯の国力に、懼《おそれ》を抱《いだ》き始めた。苦心の結果、誠にいかにも古代|支那《しな》式な苦肉の策が採られた。すなわち、斉から魯へ贈《おく》るに、歌舞《かぶ》に長じた美女の一団をもってしたのである。こうして魯侯の心を蕩《とろ》かし定公と孔子との間を離間《りかん》しようとしたのだ。ところで、更に古代支那式なのは、この幼稚な策が、魯国内反孔子派の策動と相《あい》俟《ま》って、余りにも速く効を奏したことである。魯侯は女楽に耽《ふけ》ってもはや朝《ちょう》に出なくなった。季桓子《きかんし》以下の大官連もこれに倣《なら》い出す。子路は真先に憤慨《ふんがい》して衝突《しょうとつ》し、官を辞した。孔子は子路ほど早く見切をつけず、なお尽《つ》くせるだけの手段を尽くそうとする。子路は孔子に早く辞《や》めてもらいたくて仕方が無い。師が臣節を汚《けが》すのを懼れるのではなく、ただこの淫《みだ》らな雰囲気《ふんいき》の中に師を置いて眺《なが》めるのが堪《たま》らないのである。
 孔子の粘《ねば》り強さもついに諦めねばならなくなった時、子路はほっと[#「ほっと」に傍点]した。そうして、師に従って欣《よろこ》んで魯の国を立退《たちの》いた。
 作曲家でもあり作詞家でもあった孔子は、次第に遠離《とおざか》り行く都城を顧《かえり》みながら、歌う。
 かの美婦の口には君子ももって出走すべし。かの美婦の謁《えつ》には君子ももって死敗すべし。…………
 かくて、爾後《じご》永年に亘《わた》る孔子の遍歴《へんれき》が始まる。

     七

 大きな疑問が一つある。子供の時からの疑問なのだが、成人になっても老人になりかかってもいまだに納得できないことに変りはない。それは、誰もが一向に怪《あや》しもうとしない事柄《ことがら》だ。邪《じゃ》が栄えて正が虐《しいた》げられるという・ありきたりの事実についてである。
 この事実にぶつかるごとに、子路は心からの悲憤《ひふん》を発しないではいられない。なぜだ? なぜそうなのだ? 悪は一時栄えても結局
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