する李徴の祝辭。青年時代に親しかつた者同志の、あの隔てのない語調で、それ等が語られた後、袁※[#「にんべん+參」、第4水準2−1−79]は、李徴がどうして今の身となるに至つたかを訊ねた。草中の聲は次のやうに語つた。
 今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊つた夜のこと、一睡してから、ふと眼を覺ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでゐる。聲に應じて外へ出て見ると、聲は闇の中から頻りに自分を招く。覺えず、自分は聲を追うて走り出した。無我夢中で駈けて行く中に、何時しか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を攫《つか》んで走つてゐた。何か身體中に力が充ち滿ちたやうな感じで、輕々と岩石を跳《と》び越えて行つた。氣が付くと、手先や肱のあたりに毛を生じてゐるらしい。少し明るくなつてから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となつてゐた。自分は初め眼を信じなかつた。次に、之は夢に違ひないと考へた。夢の中で、之は夢だぞと知つてゐるやうな夢を、自分はそれ迄に見たことがあつたから。どうしても夢でないと悟らねばならなかつた時、自分は茫然とした。さうして、懼れた。全く、どんな事でも起り得るのだ
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