る。その家へ出掛けて行って説得、成功。俺の神経も、何と鈍く、頑強になったものだ!
昨日、ラウペパ王を訪問す。低い、惨めな家。地方の寒村にだって此の位の家は幾らでもある。丁度向い側に、殆ど竣工《しゅんこう》の成った政務長官官邸が聳《そび》え、王は日毎に此の建物を仰いでおらねばならぬ。彼は白人官吏への気兼から、我々に会うことを余り望まぬようだ。乏しい会談。しかし、この老人のサモア語の発音――殊に、その重母音の発音は美しい。非常に。
十一月××日
「難破船引揚業者《レッカー》」漸《ようや》く完成。「サモア史脚註」も進行中。現代史を書くことのむずかしさ。殊に、登場人物が悉《ことごと》く自己の知人なる時、その困難は倍加す。
先日のラウペパ王訪問は、果然、大騒を惹起《ひきおこ》す。新しい布告が出る。何人も領事の許可なくして、又、許されたる通訳者なしには、王と会見すべからず、と。聖なる傀儡《かいらい》。
長官より会談の申込あり。懐柔せんとなるべし。断る。
斯《か》くて余は公然|独逸《ドイツ》帝国に対する敵となり終れるものの如し。何時もうち[#「うち」に傍点]に遊びに来ていた独逸士官達も、出帆に際し挨拶に来られぬ旨を言いよこした。
政府が街の白人達に不人気なのは面白い。徒《いたず》らに島民の感情を刺戟《しげき》して、白人の生命財産を危険に曝《さら》すからだ。白人は土人よりも税を納めない。
インフルエンザ猖獗《しょうけつ》。街のダンス場も閉じた。ヴァイレレ農場では七十人の人夫が一時に斃《たお》れたと。
十二月××日
一昨日の午前、ココアの種子千五百、続いて午後に七百、届く。一昨日の正午から昨日の夕刻迄うち[#「うち」に傍点]中総出で、この植付にかかりっきり。みんな泥まみれになり、ヴェランダは愛蘭土《アイルランド》泥炭沼の如し。ココアは始めココア樹の葉で編んだ籠《かご》に蒔《ま》く。十人の土人が裏の森の小舎で此の籠を編む。四人の少年が土を掘って箱に入れヴェランダヘ運ぶ。ロイドとベル(イソベル)と私とが、石や粘土塊をふるって土を籠に入れる。オースティン少年と下婢《かひ》のファアウマとが其の籠をファニイの所へ持って行く。ファニイが一つの籠に一つの種子を埋め、それをヴェランダに並べる。一同綿の如くに疲れて了った。今朝もまだ疲れが抜けないが、郵船日も近いので、急いで「サモア史脚註」第五章を書上げる。之は芸術品ではない。唯、急いで書上げて急いで読んで貰うべきもの。さもなければ無意味だ。
政務長官辞任の噂あり。あてにはならぬ。領事連との衝突が此の噂を生んだのだろう。
一八九二年一月×日
雨。暴風の気味あり。戸をしめランプを点《つ》ける。感冒が中々抜けぬ。リュウマチも起って来た。或る老人の言葉を思出す。「あらゆるイズムの中で最悪なのは、リュウマティズムだ。」
此の間から休養をとる意味で、曾祖父《そうそふ》の頃からのスティヴンスン家の歴史を書始めた。大変楽しい。曾祖父と、祖父と、其の三人の息子(私の父をも含めて)とが、相次いで、黙々と、霧深き北スコットランドの海に灯台を築き続けた其の貴い姿を思う時、今更ながら私は誇に充たされる。題は何としよう? 「スティヴンスン家の人々」「スコットランド人の家」「エンジニーアの一家」「北方の灯台」「家族史」「灯台技師の家」?
祖父が、凡《およ》そ想像に絶する困難と闘ってベル・ロック暗礁岬の灯台を建てた時の詳しい記録が残っている。それを読んでいる中に、何だか自分が(或いは未生の我が)本当にそんな経験をしたかのような気がして来る。自分は自分が思っている程自分ではなく、今から八十五年前北海の風波や海霧《ガス》に苦しみながら、干潮の時だけ姿を見せる・此の魔の岬と、実際に戦ったことがあるのだ、と、確かにそう思えて来る。風の激しさ。水の冷たさ。艀《はしけ》の揺れ。海鳥の叫。そういうもの迄がありありと感じられるのだ。突然胸を灼《や》かれるような気がした。磽※[#「石+角」、第3水準1−89−6]《こうかく》たるスコットランドの山々、ヒースの茂み。湖。朝夕聞慣れたエディンバラ城の喇叭《らっぱ》。ペントランド、バラヘッド、カークウォール、ラス岬、嗚呼《ああ》!
私の今いる所は、南緯十三度、西経百七十一度。スコットランドとは丁度地球の反対側なのだ。
七
「灯台技師の家」の材料をいじっている中に、何時かスティヴンスンは、一万|哩《マイル》彼方のエディンバラの美しい街を憶《おも》い出していた。朝夕の霧の中から浮び上る丘々や、その上に屹然《きつぜん》として聳える古城郭から、遥か聖ジャイルス教会の鐘楼へかけての崎嶇《きく》たるシルウェットが、ありありと眼の前に浮かんで来た。
幼い頃からひどく気管の弱かった少年スティヴンスンは、冬の暁毎に何時も烈しい咳の発作に襲われて、寐《ね》ていられなかった。起上り、乳母のカミイに扶《たす》けられ、毛布にくるまって窓際の椅子に腰掛ける。カミイも少年と並んで掛け、咳の静まる迄、互いに黙って、じっと外を見ている。硝子《ガラス》戸《ど》越に見るヘリオット|通り《ロウ》はまだ夜のままで、所々に街灯がぼうっと滲《にじ》んで見える。やがて車の軋《きし》る音がし、窓の前をすれすれに、市場行の野菜車の馬が、白い息を吐き吐き通って行く。…………之がスティヴンスンの記憶に残る最初の此の都の印象だった。
エディンバラのスティヴンスン家は、代々灯台技師として聞えていた。小説家の曾祖父に当るトマス・スミス・スティヴンスンは北英灯台局の最初の技師長であり、その子ロバァトも亦其の職を継いで、有名なベル・ロックの灯台を建設した。ロバァトの三人の息子、アラン、デイヴィッド、トマス、もそれぞれ次々に此の職を襲った。小説家の父、トマスは、廻転灯、総光反射鏡の完成者として、当時、灯台光学の泰斗であった。彼は其の兄弟と協力して、スケリヴォア、チックンスを始め、幾つかの灯台を築き、多くの港湾を修理した。彼は、有能な実際的科学者で、忠実な大英国の技術官で、敬虔《けいけん》なスコットランド教会の信徒で、かの基督《キリスト》教のキケロといわれるラクタンティウスの愛読者で、又、骨董《こっとう》と向日葵《ひまわり》との愛好者だった。彼の息子の記す所によれば、トマス・スティヴンスンは、常に、自己の価値に就いて甚だしく否定的な考を抱き、ケルト的な憂鬱《ゆううつ》を以て、絶えず死を思い無常を観じていたという。
高貴な古都と、其処に住む宗教的な人々(彼の家族をも含めて)とを、青年期のロバァト・ルゥイス・スティヴンスンは激しく嫌悪した。プレスビテリアンの中心たる此の都が、彼には悉く偽善の府と見えたのである。十八世紀の後半、此の都にディーコン・ブロディなる男がいた。昼間は指物師をやり市会議員を勤めていたが、夜になると一変して賭博者《とばくしゃ》となり、兇悪《きょうあく》な強盗となって活躍した。大分久しい後に漸《ようや》く顕《あらわ》れて処刑されたが、この男こそエディンバラ上流人士の象徴だと、二十歳のスティヴンスンは考えた。彼は、通い慣れた教会の代りに、下町の酒場へ通い出した。息子の文学者志望宣言(父は初め息子をもエンジニーアに仕立てようと考えていたのだが)は、どうにか之を認め得た父親も、その背教だけは許せなかった。父親の絶望と、母親の涙と、息子の憤激の中に、親子の衝突が屡々《しばしば》繰返された。自分が破滅の淵に陥っていることを悟れない程、未だ子供であり、しかも父の救の言葉を受付けようとしない程、成人《おとな》になっている息子を見て、父親は絶望した。此の絶望は、余りに内省的な彼の上に奇妙な形となって顕《あらわ》れた。幾回かの争の後、彼は最早息子を責めようとせず、ひたすらに我が身を責めた。彼は独り跪《ひざまず》き、泣いて祈り、己の至らざる故に倅《せがれ》を神の罪人としたことを自ら激しく責め、且つ神に詫《わ》びた。息子の方では、科学者たる父が何故こんな愚かしい所行を演ずるのか、どうしても理解できなかった。
それに、彼は、父と争論したあとでは何時も、「どうして親の前に出ると斯《こ》んな子供っぽい議論しか出来なくなるのだろうか」と、自分でいや[#「いや」に傍点]になって了うのである。友人と話合っている時ならば、颯爽《さっそう》とした(少くとも成人《おとな》の)議論の立派に出来る自分なのに、之は一体どうした訳だろう? 最も原始的なカテキズム、幼稚な奇蹟|反駁論《はんばくろん》、最も子供|欺《だま》しの拙劣な例を以て証明されねばならない無神論。自分の思想は斯んな幼稚なものである筈はないのに、と思うのだが、父親と向い合うと、何時も結局は、こんな事になって了う。父親の論法が優れていて此方が負ける、というのでは毛頭ない。教義に就いての細緻《さいち》な思索などをした事のない父親を論破するのは極めて容易だのに、その容易な事をやっている中に、何時の間にか、自分の態度が我ながら厭《いや》になる程、子供っぽいヒステリックな拗《す》ねたものとなり、議論の内容そのもの迄が、可嗤《リディキュラス》なものになっているのだ。父に対する甘え[#「甘え」に傍点]が未だ自分に残っており、(ということは、自分が未だ本当に成人《おとな》でなく)それが、「父が自分をまだ子供と視ていること」と相俟《あいま》って、こうした結果を齎《もたら》すのだろうか? それとも、自分の思想が元来くだらない未熟な借物であって、それが、父の素朴な信仰と対置されて其の末梢的《まっしょうてき》な装飾部分を剥《はぎ》去《さ》られる時、その本当の姿を現すのだろうか? 其の頃スティヴンスンは、父と衝突したあとで、何時も決って、この不快な疑問を有《も》たねばならなかった。
スティヴンスンがファニイと結婚する意志を明かにした時、父子の間は再び嶮《けわ》しいものとなった。トマス・スティヴンスン氏にとっては、ファニィが米国人であり、子持であり、年上であることよりも、実際はどうあろうと兎に角彼女が戸籍の上で現在オスボーン夫人であることが第一の難点だったのである。我儘《わがまま》な一人息子は、年歯《とし》三十にして初めて自活――それもファニイとその子供迄養う決心をして、英国を飛出した。父子の間は音信不通となった。一年の後、何千|哩《マイル》隔てた海と陸の彼方で、息子が五十|仙《セント》の昼食にも事欠きながら病と闘っていることを人伝《ひとづて》に聞いたトマス・スティヴンスン氏は、流石《さすが》に堪えられなくなって、救の手を差しのべた。ファニイは米国から未見の舅《しゅうと》に自分の写真を送り、書添えて言った。「実物よりもずっと良く撮れております故、決して此の通りとお思い下さいませぬよう。」
スティヴンスンは妻と義子とを連れて英国に帰って来た。意外なことに、トマス・スティヴンスン氏は倅の妻に大変満足した。元来、彼は倅の才能は明らかに認めながらも、何処か倅の中に、通俗的な意味で安心の出来ない所があるのを感じていた。此の不安は、倅が幾ら年齢を加えても決して消えなかった。それが、今、ファニイによって、(初めは反対した結婚ではあったが)息子の為に実務的な確実な支柱を得たような気がした。美しく・脆《もろ》い・花のような精神を支えるべき、生気に充ちた強靱《きょうじん》な支柱を。
長い不和の後、一家――両親、妻、ロイドと揃ってブレイマの山荘に過した一八八一年の夏を、スティヴンスンは今でも快く思い起すことが出来る。それは、アバディーン地方特有の東北風が連日、雨と雹《ひょう》とを伴って吹荒《ふきすさ》む沈鬱《ちんうつ》な八月であった。スティヴンスンの身体は例によって悪かった。或日エドモンド・ゴスが訪ねて来た。スティヴンスンより一つ年上の・この博識温厚な青年は、父のスティヴンスン氏とも良く話が合った。毎朝ゴスは朝食を済ますと、二階の病室に上って行く。スティヴンスンは寝床の上に起上って待っている。将棋《チェス》をするのだ。「病人
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