のである。

   四

一八九一年五月×日
 自分の領土(及び其の地続き)内の探険。ヴァイトゥリンガ流域の方は先日行って見たので、今日はヴァエア河の上流を探る。
 叢林《そうりん》の中を大体見当をつけて東へ進む。漸く河の縁へ出る。最初河床は乾いている。ジャック(馬)を連れて来たのだが、河床の上に樹々が低く密生して馬は通れないので、叢林の中の木に繋《つな》いで置く。乾いた川筋を上って行く中に、谷が狭くなり、所々に洞《ほら》があったりして、横倒しになった木の下を屈《かが》まずにくぐって歩けた。
 北へ鋭く曲る。水の音が聞えた。暫くして、峙《そばだ》つ岩壁にぶつかる。水が其の壁面を簾《すだれ》のように浅く流れ下っている。其の水は直ぐ地下に潜って見えなくなって了う。岩壁は攀登《よじのぼ》れそうもないので、木を伝って横の堤に上る。青臭い草の匂がむんむん[#「むんむん」に傍点]して、暑い。ミモザの花。羊歯《しだ》類の触手。身体中を脈搏《みゃくはく》が烈しく打つ。途端に何か音がしたように思って耳をすます。確かに水車の廻るような音がした。それも、巨大な水車が直ぐ足許でゴーッと鳴った様な、或いは、遠雷の様な音が、二三回。そして、その音が強くなる度に、静かな山全体が揺れるように感じた。地震だ。
 又、水路に沿って行く。今度は水が多い。恐ろしく冷たく澄んだ水。夾竹桃《きょうちくとう》、枸櫞樹《シトロン》、たこ[#「たこ」に傍点]の木、オレンジ。其等の樹々の円天井の下を暫く行くと、また水が無くなる。地下の熔岩《ようがん》の洞穴の廊下に潜り込むのだ。私は其の廊下の上を歩く。何時迄行っても、樹々に埋れた井戸の底から仲々抜出られぬ。余程行ってから、漸く繁みが浅くなり、空が葉の間から透けて見えるようになった。
 ふと、牛の鳴声を聞きつける。確かに私の所有する牛には違いないが、先方では所有主を見知るまいから、頗《すこぶ》る危険だ。立停り、様子をうかがって、巧《うま》くやり過ごす。暫く進むと、※[#「壘」の「土」に代えて「糸」、第3水準1−90−24]々《るいるい》たる熔岩の崖に出くわす。浅い美しい滝がかかっている。下の水溜《みずたまり》の中を、指ぐらいの小魚の影がすいすいと走る。ざりがに[#「ざりがに」に傍点]もいるらしい。朽ち倒れ、半ば水に浸った巨木の洞。渓流の底の一枚岩が不思議にルビイの様に紅い。
 やがて又も河床は乾き、いよいよヴァエア山の嶮《けわ》しい面を上って行く。河床らしいものもなくなり、山頂に近い台地に出る。彷徨《ほうこう》すること暫し、台地が東側の大峡谷に落ちこむ縁の所に、一本の素晴らしい巨樹を見付けた。榕樹《ガジマル》だ。高さは二百|呎《フィート》もあろう。巨幹と数知れぬ其の従者共(気根)とは、地球を担うアトラスの様に、怪鳥の翼を拡げたるが如き大枝の群を支え、一方、枝々の嶺《みね》の中には、羊歯・蘭類がそれぞれ又一つの森のように叢《むら》がり茂っている。枝々の群は、一つの途方もなく大きな円蓋《ドーム》だ。それは層々※[#「壘」の「土」に代えて「糸」、第3水準1−90−24]々と盛上って、明るい西空(既に大分夕方に近くなっていた)に高く向い合い、東の方《かた》数|哩《マイル》の谿《たに》から野にかけて蜿蜒《えんえん》と拡がる其の影の巨《おお》きさ! 誠に、何とも豪宕《ごうとう》な観ものであった。
 もう遅いので慌てて、帰途に就く。馬を繋いで置いた所へ来て見ると、ジャックは半狂乱の態だ。独りぼっちで森の中に半日捨て置かれた恐怖の為らしい。ヴァエア山にはアイトゥ・ファフィネなる女怪が出ると土人は云うから、ジャックはそれを見たのかも知れぬ。何度もジャックに蹴られそうになりながら、漸《ようや》くのことで宥《なだ》めて、連れ帰った。

五月×日
 午後、ベル(イソベル)のピアノに合せて銀笛《フラジオレット》を吹く。クラックストン師来訪。「|壜の魔物《ボットル・イムプ》」をサモア語に訳して、オ・レ・サル・オ・サモア誌に載せ度き由。欣《よろこ》んで承諾。自分の短篇の中でも、ずっと昔の「ねじけジャネット」や、この寓話《ぐうわ》など、作者の最も好きなものだ。南海を舞台にした話だから、案外土人達も喜ぶかも知れない。之で愈々《いよいよ》私は彼等のツシタラ(物語の語り手)となるのだ。
 夜、寝に就いてから、雨の音。海上遠く微かな稲妻。

五月××日
 街へ下りる。殆ど終日為替のことでゴタゴタ。銀の騰落は、此の地に於ては頗《すこぶ》る大問題なり。
 午後、港内に碇泊《ていはく》中の船々に弔旗揚がる。土人の女を妻とし、サメソニの名を以て島民に親しまれていたキャプテン・ハミルトンが死んだのだ。
 夕方、米国領事館の方へ歩いて見た。満月の美しい夜。マタウトゥの角を曲った時、前方から讃美歌の合唱の声が聞えた。死者の家のバルコニイに女達(土人の)が沢山いて唱《うた》っているのだった。未亡人になったメァリイ(矢張、サモア人だが)が、家の入口の椅子に掛けていた。私と見知越しの彼女は、私を請じ入れて自分の隣に掛けさせた。室内の卓子《テーブル》の上に、シーツに包まれて横たわっている故人の遺骸を私は見た。讃美歌が終ってから、土人の牧師が立上って、話を始めた。長い話だった。灯明の光が扉や窓から外へ流れ出していた。褐色の少女達が沢山私の近くに坐っていた。恐ろしく蒸暑かった。牧師の話が終ると、メァリイは私を中に案内した。故キャプテンの指は胸の上に組まれ、其の死顔は穏かだった。今にも何か口をききそうであった。之程生々した・美しい蝋細工《ろうざいく》の面を未だ見たことがない。
 一礼して私は表へ出た。月が明るく、オレンジの香が何処からか匂っていた、既に此の世の戦を終え、こんな美しい熱帯の夜、乙女等の唄に囲まれて静かに眠っている故人に対して、一種甘美な羨望《せんぼう》の念を私は覚えた。

五月××日
 「南洋だより」は、編輯者《へんしゅうしゃ》並びに読者に不満の由。曰《いわ》く、『南洋研究の資料|蒐集《しうしふ》[#ルビの「しうしふ」は底本では「しうしう」]、或ひは科学的観察ならば、又、他に人もあるべし。読者のR・L・S・氏に望む所のものは、固《もと》よりその麗筆に係る南海の猟奇的冒険詩に有之候』冗談ではない。私があの原稿を書く時、頭に浮べていた模範《モデル》は、十八世紀風の紀行文、筆者の主観や情緒を抑えて、即物的な観察に終始した・ああいう行き方なのだ。「宝島」の作者は何時迄も海賊と埋もれた宝物のことを書いていればいいのであって、南海の殖民事情や、土着民の人口減少現象や、布教状態に就いて考察する資格が無いとでもいうのか? やり切れないことには、ファニイ迄が亜米利加《アメリカ》の編輯者と同意見なのだ。「精確な観察よりも、華《はな》やかで面白い話[#「話」に傍点]を書かなければ、」と云うのだ。
 大体、私は近頃、従来の自分の極彩色描写が段々|厭《いや》になって来た。最近の私の文体は、次の二つを目指している積りだ。一、無用の形容詞の絶滅。二、視覚的描写への宣戦。ニューヨーク・サン紙の編輯者にもファニイにもロイドにも、未だに此の事が解らないのだ。

「難破船引揚業者《レッカー》」は順調に進捗《しんちょく》しつつある。ロイドの他にイソベルという一層|叮嚀《ていねい》な筆記者が殖えたのは、大いに助かる。
 家畜の宰領をしているラファエレに、現在の頭数を聞いて見たら、乳牛三頭、犢《こうし》が牝《めす》牡《おす》各一頭ずつ、馬八頭、(ここ迄は聞かなくても知っている。)豚が三十匹余り。家鴨《あひる》と※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]とは随処に出没するので殆ど無数という外はなく、尚、別に夥《おびただ》しい野良猫共が跋扈《ばっこ》している由。野良猫は家畜なりや?

五月××日
 街に、島巡りのサーカスが来たというので、一家総出で見に行く。真昼の大天幕の下、土人の男女の喧騒《けんそう》の中で、生温い風に吹かれながら、曲芸を見る。これが我々にとっての唯一の劇場だ。我々のプロスペロオは球乗《たまのり》の黒熊。ミランダは馬の背に乱舞しつつ火の輪を潜る。
 夕方、帰る。何か心|怡《たの》しまず。

六月×日
 昨夜八時半頃ロイドと自室にいると、ミタイエレ(十一・二歳の少年召使)がやって来て、一緒に寐《ね》ているパータリセ(最近、戸外労働から室内給仕に昇格した十五・六歳の少年、ワリス島の者で英語は皆目判らず、サモア語も五つしか知らない。)が、急に変な事を言出して気味が悪い、と言った。何でも、「今から森の中にいる家族《うち》の者に逢いに行く。」といって聞かないのだそうだ。「森の中に、あの子の家があるのか?」と聞くと、「あるもんですか。」とミタイエレが言う。直ぐにロイドと、彼等の寝室へ行った。パータリセは睡っている者のように見えたが、何かうわ[#「うわ」に傍点]言を言っている。時々、脅された鼠《ねずみ》の様な声を立てる。身体にさわると冷たい。脈は速くない。呼吸の度に腹が大きく上下する。突然、彼は起上り、頭を低く下げ、前へつんのめるような恰好《かっこう》で、扉に向って走った。(といっても、其の動作は余り速くなく、ぜんまい[#「ぜんまい」に傍点]の弛《ゆる》んだ機械玩具のような奇妙なのろさ[#「のろさ」に傍点]であった。)ロイドと私とが彼をつかまえてベッドに寐かしつけた。暫くして又逃出そうとした。今度は猛烈な勢なので、やむを得ず、みんなで彼をベッドに(シーツや縄で)括《くく》り付けた。パータリセは、そうやって抑え付けられた儘《まま》時々何か呟き、時に、怒った子供の様に泣いた。彼の言葉は、「ファアモレモレ(何卒《なにとぞ》)」が繰返される外、「家の者が呼んでいる」とも言っているらしい。その中《うち》にアリック少年とラファエレとサヴェアとがやって来た。サヴェアはパータリセと同じ島の生れで、彼と自由に話が出来るのだ。我々は彼等に後を任せて部屋に戻った。
 突然、アリックが私を呼んだ。急いで駈付けると、パータリセは縛《いましめ》をすっかり脱し、巨漢ラファエレにつかまえられている。必死の抵抗だ。五人がかりで取抑えようとしたが、狂人は物凄い力だ。ロイドと私とが片脚の上に乗っていたのに、二人とも二|呎《フィート》も高く跳ね飛ばされて了った。午前一時頃迄かかって、到頭抑えつけ、鉄の寝台脚に手首足首を結びつけた。厭な気持だが、やむを得ない。其の後も発作は刻一刻と烈しくなるようだ。何のことはない。まるで、ライダー・ハガードの世界だ。(ハガードといえば、今、彼の弟が土地管理委員としてアピアの街に住んでいる。)
 ラファエレが「狂人の工合は大変悪いから、自分の家の家伝の秘薬を持って来よう」と言って、出て行った。やがて、見慣れぬ木の葉を数枚持って来、それを噛んで狂少年の眼に貼付《はりつ》け、耳の中に其の汁を垂らし、(ハムレットの場面?)鼻孔《びこう》にも詰込んだ。二時頃、狂人は熟睡に陥った。それから朝迄発作が無かったらしい。今朝ラファエレに聞くと、「あの薬は使い方一つで、一家|鏖殺《おうさつ》位、訳なく出来る劇毒薬で、昨夜は少し利き過ぎなかったかと心配した。自分のほかに、もう一人、比の島で此の秘法を知っている者がある。それは女で、其の女は之を悪い目的の為に使ったことがある。」と。
 入港中の軍艦の医者に今朝来て貰ったが、パータリセを診て、異常なしという。少年は、今日は仕事をするのだと言って聞かず、朝食の時、皆の所へ来て、昨夜の謝罪のつもりだろうか、家中の者に接吻した。この狂的接吻には、一同少からず辟易《へきえき》。しかし、土人達は皆パータリセの譫言《うわごと》を信じているのだ。パータリセの家の死んだ一族が多勢、森の中から寝室へ来て、少年を幽冥界《ゆうめいかい》へ呼んだのだと。又、最近死んだパータリセの兄が其の日の午後|叢林《そうりん》の中で少年に会い、彼の額を打ったに違いないと。又、我々は死者の霊と、昨夜一晩戦い続け、竟《つい》に死霊共は
前へ 次へ
全18ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング