は午前中は、しゃべってはいけない」と医者に禁じられているので、無言の将棋である。その中に疲れて来ると、スティヴンスンが盤の縁を叩いて合図する。すると、ゴスなり、ファニイなりが彼を寐《ね》かせ、そして、何時でも書きたい時に寐たなりで書けるように、布団の位置を巧《うま》く、しつらえる。ディナーの時間迄ステイヴンスンは独りで寐たまま、休んでは書き、書いては休みする。ロイド少年の画いていた或る地図から思いついた海賊冒険|譚《たん》を、彼は書続けていた。ディナーの時になると、ステイヴンスンは階下《した》に下りて来る。午前中の禁が解かれているので、今度は饒舌《じょうぜつ》である。夜になると、彼は其の日|書溜《かきた》めた分を、みんなに読んで聞かせる。外では雨風の音が烈しく、隙間風に燭台《しょくだい》の灯がちらちらと揺れる。一同は思い思いの姿勢で、熱心に聞きとれている。読終ると、てんでに色々な註文や批評を持出す。一晩毎に興味を増して来て、父親までが、「ビリィ・ボーンズの箱の中の品目作製を受持とう」と言出した。ゴスはゴスで、又、別の事を考えながら、暗然たる気持で此の幸福そうな団欒《だんらん》を眺めていた。「此の華やかな俊才の蝕《むしば》まれた肉体は、果して何時迄もつだろうか? 今幸福そうに見える此の父親は、一人息子に先立たれる不幸を見ないで済むだろうか。」と。
しかし、トマス・スティヴンスン氏は其の不幸を見ないで済んだ。息子が最後に英国を離れる三月前に、彼はエディンバラで死んだ。
八
一八九二年四月×日
思いがけなくラウペパ王が護衛を連れて訪ねて来た。うち[#「うち」に傍点]で昼食。老人、今日は中々愛想がいい。何故自分を訪ねて呉れないんだ? などと云う。王との会見には領事連の諒解が必要だから、と私がいうと、そんな事は構わぬ、といい、また昼食を共にしたいから日時を指定せよと言う。この木曜に会食しようと約束する。
王が帰ると間もなく、巡査の徽章《きしょう》のようなものを佩《つ》けた男が訪ねて来た。アピア市の巡査ではない。所謂《いわゆる》叛乱者側(マターファ側の者をアピア政府の官吏は、そう呼ぶ。)の者だ。マリエからずっと歩き通して来たのだという。マターファの手紙を持って来たのだ。私も今ではサモア語が読める。(話す方は駄目だが、)彼の自重を望んだ先日の私の書簡に対する返辞のようなもので、会い度いから来週の月曜にマリエヘ来て呉れという。土語の聖書を唯一の参考にして(「我誠に汝らに告ぐ」式の手紙だから、先方も驚くだろう。)承知の旨をたどたどしいサモア語でしたためる。一週間の中に、王と、其の対立者とに会う訳だ。斡旋《あっせん》の実が挙がれば良いと思う。
四月×日
身体の工合余り良からず。
約束故、ムリヌウの、みすぼらしき王宮へ御馳走になりに行く。何時もながら、直ぐ向いの政務長官官邸が眼障りでならぬ。今日のラウペパの話は面白かった。五年前悲壮な決意を以て独逸《ドイツ》の陣営に身を投じ、軍艦に載せられて見知らぬ土地に連れ行かれた時の話である。素朴な表現が心を打った。
[#ここから1字下げ]
「…………昼はいけないが、夜だけは甲板に上ってもいいと言われた。長い航海の後、一つの港に着いた。上陸すると、恐ろしく暑い土地で、足首を二人ずつ鉄の鎖で繋《つな》がれた囚人等が働いていた。其処には浜の真砂《まさご》のように数多くの黒人がいた。…………それから又大分船に乗り、独逸も近いと言われた頃、不思議な海岸を見た。見渡す限り真白な崖が陽に輝いているのだ。三時間も経つと、それが天に消えて了ったので、更に驚いた。…………独逸に上陸してから、中に汽車というものの沢山はいっている硝子《ガラス》屋根の巨《おお》きな建物の中を歩いた。それから、家みたいに窓とデッキとのある馬車に乗り、五百も部屋のある家に泊った。…………独逸を離れて大分航海してから、川の様な狭い海を船がゆっくり進んだ。聖書の中で聞いていた紅海だと教えられ、欣《よろこ》ばしい好奇心で眺めた。それから、海の上を夕陽の色が眩《まぶ》しく赤々と流れる時刻に、別の軍艦に乗移らせられた。…………」
[#ここで字下げ終わり]
古い、美しいサモア語の発音で、ゆっくりゆっくり語られる此の話は、大変面白かった。
王は、私がマターファの名を口に出すことを懼《おそ》れているらしい。話好きな、人の善い老人だ。ただ、現在の自分の位置に就いての自覚が無いのである。明後日、又、是非訪ねて呉れという。マターファとの会見も迫っているし、身体の工合も良くないが、兎に角承知して置く。以後、通訳は、牧師のホイットミイ氏に頼もうと思う。同氏の宅で明後日、王と落合うことに決める。
四月×日
早朝馬で街へ下り、八時頃ホイットミイ氏の家へ
前へ
次へ
全45ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング