は初め息子をもエンジニーアに仕立てようと考えていたのだが)は、どうにか之を認め得た父親も、その背教だけは許せなかった。父親の絶望と、母親の涙と、息子の憤激の中に、親子の衝突が屡々《しばしば》繰返された。自分が破滅の淵に陥っていることを悟れない程、未だ子供であり、しかも父の救の言葉を受付けようとしない程、成人《おとな》になっている息子を見て、父親は絶望した。此の絶望は、余りに内省的な彼の上に奇妙な形となって顕《あらわ》れた。幾回かの争の後、彼は最早息子を責めようとせず、ひたすらに我が身を責めた。彼は独り跪《ひざまず》き、泣いて祈り、己の至らざる故に倅《せがれ》を神の罪人としたことを自ら激しく責め、且つ神に詫《わ》びた。息子の方では、科学者たる父が何故こんな愚かしい所行を演ずるのか、どうしても理解できなかった。
それに、彼は、父と争論したあとでは何時も、「どうして親の前に出ると斯《こ》んな子供っぽい議論しか出来なくなるのだろうか」と、自分でいや[#「いや」に傍点]になって了うのである。友人と話合っている時ならば、颯爽《さっそう》とした(少くとも成人《おとな》の)議論の立派に出来る自分なのに、之は一体どうした訳だろう? 最も原始的なカテキズム、幼稚な奇蹟|反駁論《はんばくろん》、最も子供|欺《だま》しの拙劣な例を以て証明されねばならない無神論。自分の思想は斯んな幼稚なものである筈はないのに、と思うのだが、父親と向い合うと、何時も結局は、こんな事になって了う。父親の論法が優れていて此方が負ける、というのでは毛頭ない。教義に就いての細緻《さいち》な思索などをした事のない父親を論破するのは極めて容易だのに、その容易な事をやっている中に、何時の間にか、自分の態度が我ながら厭《いや》になる程、子供っぽいヒステリックな拗《す》ねたものとなり、議論の内容そのもの迄が、可嗤《リディキュラス》なものになっているのだ。父に対する甘え[#「甘え」に傍点]が未だ自分に残っており、(ということは、自分が未だ本当に成人《おとな》でなく)それが、「父が自分をまだ子供と視ていること」と相俟《あいま》って、こうした結果を齎《もたら》すのだろうか? それとも、自分の思想が元来くだらない未熟な借物であって、それが、父の素朴な信仰と対置されて其の末梢的《まっしょうてき》な装飾部分を剥《はぎ》去《さ》られる時、その本当の姿を現すのだろうか? 其の頃スティヴンスンは、父と衝突したあとで、何時も決って、この不快な疑問を有《も》たねばならなかった。
スティヴンスンがファニイと結婚する意志を明かにした時、父子の間は再び嶮《けわ》しいものとなった。トマス・スティヴンスン氏にとっては、ファニィが米国人であり、子持であり、年上であることよりも、実際はどうあろうと兎に角彼女が戸籍の上で現在オスボーン夫人であることが第一の難点だったのである。我儘《わがまま》な一人息子は、年歯《とし》三十にして初めて自活――それもファニイとその子供迄養う決心をして、英国を飛出した。父子の間は音信不通となった。一年の後、何千|哩《マイル》隔てた海と陸の彼方で、息子が五十|仙《セント》の昼食にも事欠きながら病と闘っていることを人伝《ひとづて》に聞いたトマス・スティヴンスン氏は、流石《さすが》に堪えられなくなって、救の手を差しのべた。ファニイは米国から未見の舅《しゅうと》に自分の写真を送り、書添えて言った。「実物よりもずっと良く撮れております故、決して此の通りとお思い下さいませぬよう。」
スティヴンスンは妻と義子とを連れて英国に帰って来た。意外なことに、トマス・スティヴンスン氏は倅の妻に大変満足した。元来、彼は倅の才能は明らかに認めながらも、何処か倅の中に、通俗的な意味で安心の出来ない所があるのを感じていた。此の不安は、倅が幾ら年齢を加えても決して消えなかった。それが、今、ファニイによって、(初めは反対した結婚ではあったが)息子の為に実務的な確実な支柱を得たような気がした。美しく・脆《もろ》い・花のような精神を支えるべき、生気に充ちた強靱《きょうじん》な支柱を。
長い不和の後、一家――両親、妻、ロイドと揃ってブレイマの山荘に過した一八八一年の夏を、スティヴンスンは今でも快く思い起すことが出来る。それは、アバディーン地方特有の東北風が連日、雨と雹《ひょう》とを伴って吹荒《ふきすさ》む沈鬱《ちんうつ》な八月であった。スティヴンスンの身体は例によって悪かった。或日エドモンド・ゴスが訪ねて来た。スティヴンスンより一つ年上の・この博識温厚な青年は、父のスティヴンスン氏とも良く話が合った。毎朝ゴスは朝食を済ますと、二階の病室に上って行く。スティヴンスンは寝床の上に起上って待っている。将棋《チェス》をするのだ。「病人
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