怒った子供の様に泣いた。彼の言葉は、「ファアモレモレ(何卒《なにとぞ》)」が繰返される外、「家の者が呼んでいる」とも言っているらしい。その中《うち》にアリック少年とラファエレとサヴェアとがやって来た。サヴェアはパータリセと同じ島の生れで、彼と自由に話が出来るのだ。我々は彼等に後を任せて部屋に戻った。
突然、アリックが私を呼んだ。急いで駈付けると、パータリセは縛《いましめ》をすっかり脱し、巨漢ラファエレにつかまえられている。必死の抵抗だ。五人がかりで取抑えようとしたが、狂人は物凄い力だ。ロイドと私とが片脚の上に乗っていたのに、二人とも二|呎《フィート》も高く跳ね飛ばされて了った。午前一時頃迄かかって、到頭抑えつけ、鉄の寝台脚に手首足首を結びつけた。厭な気持だが、やむを得ない。其の後も発作は刻一刻と烈しくなるようだ。何のことはない。まるで、ライダー・ハガードの世界だ。(ハガードといえば、今、彼の弟が土地管理委員としてアピアの街に住んでいる。)
ラファエレが「狂人の工合は大変悪いから、自分の家の家伝の秘薬を持って来よう」と言って、出て行った。やがて、見慣れぬ木の葉を数枚持って来、それを噛んで狂少年の眼に貼付《はりつ》け、耳の中に其の汁を垂らし、(ハムレットの場面?)鼻孔《びこう》にも詰込んだ。二時頃、狂人は熟睡に陥った。それから朝迄発作が無かったらしい。今朝ラファエレに聞くと、「あの薬は使い方一つで、一家|鏖殺《おうさつ》位、訳なく出来る劇毒薬で、昨夜は少し利き過ぎなかったかと心配した。自分のほかに、もう一人、比の島で此の秘法を知っている者がある。それは女で、其の女は之を悪い目的の為に使ったことがある。」と。
入港中の軍艦の医者に今朝来て貰ったが、パータリセを診て、異常なしという。少年は、今日は仕事をするのだと言って聞かず、朝食の時、皆の所へ来て、昨夜の謝罪のつもりだろうか、家中の者に接吻した。この狂的接吻には、一同少からず辟易《へきえき》。しかし、土人達は皆パータリセの譫言《うわごと》を信じているのだ。パータリセの家の死んだ一族が多勢、森の中から寝室へ来て、少年を幽冥界《ゆうめいかい》へ呼んだのだと。又、最近死んだパータリセの兄が其の日の午後|叢林《そうりん》の中で少年に会い、彼の額を打ったに違いないと。又、我々は死者の霊と、昨夜一晩戦い続け、竟《つい》に死霊共は負けて、暗い夜(そこが彼等の住居である)へと逃げて行かねばならなかったのだと。
六月×日
コルヴィンの所から写真を送って来た。ファニイ(感傷的な涙とは凡《およ》そ縁の遠い)が思わず涙をこぼした。
友人! 何と今の私に、それが欠けていることか! (色々な意味で)対等に話すことの出来る仲間。共通の過去を有《も》った仲間。会話の中に頭註や脚註の要らない仲間。ぞんざいな言葉は使いながらも、心の中では尊敬せずにいられぬ仲間。この快適な気候と、活動的な日々との中で、足りないものは、それだけだ。コルヴィン、バクスター、W・E・ヘンレイ、ゴス、少し遅れて、ヘンリィ・ジェイムズ、思えば俺の青春は豊かな友情に恵まれていた。みんな俺より立派な奴ばかりだ。ヘンレイとの仲違《なかたが》いが、今、最も痛切な悔恨を以て思出される。道理から云って、此方が間違っているとは、さらさら思わない。しかし、理窟なんか問題じゃない。巨大な・捲鬚《まきひげ》の・赭《あか》ら顔の・片脚の・あの男と、蒼ざめた痩《や》せっぽちの俺とが、一緒に秋のスコットランドを旅した時の、あの二十代の健かな歓びを思っても見ろ。あの男の笑い声――「顔と横隔膜とのみの笑ではなく、頭から踵《かかと》に及ぶ全身の笑」が、今も聞えるようだ。不思議な男だった、あの男は。あの男と話していると、世の中に不可能などというものは無いような気がして来る。話している中に、何時か此方迄が、富豪で、天才で、王者で、ランプを手に入れたアラディンであるような気がして来たものだ。…………
昔の|懐かしい顔《オールド・ファミリアー・フェイシズ》の一つ一つが眼の前に浮かんで来て仕方がない。無用の感傷を避けるため、仕事の中に逃れる。先日から掛かっているサモア紛争史、或いは、サモアに於ける白人横暴史だ。
しかし、英国とスコットランドとを離れてから、もう丁度、四年になるのだ。
五
[#ここから2字下げ]
――サモアに於ては古来地方自治の制、極めて鞏固《きょうこ》にして、名目は王国なれども、王は殆ど政治上の実権を有せず。実際の政治は悉《ことごと》く、各地方のフォノ(会議)によって決定せられたり。王は世襲に非ず。又、必ずしも常置の位にも非ず。古来此の諸島には、其の保持者に王者たるの資格を与うべき・名誉の称号、五つあり。各地方の大酋長《だいしゅうちょう》にして
前へ
次へ
全45ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング