前方から讃美歌の合唱の声が聞えた。死者の家のバルコニイに女達(土人の)が沢山いて唱《うた》っているのだった。未亡人になったメァリイ(矢張、サモア人だが)が、家の入口の椅子に掛けていた。私と見知越しの彼女は、私を請じ入れて自分の隣に掛けさせた。室内の卓子《テーブル》の上に、シーツに包まれて横たわっている故人の遺骸を私は見た。讃美歌が終ってから、土人の牧師が立上って、話を始めた。長い話だった。灯明の光が扉や窓から外へ流れ出していた。褐色の少女達が沢山私の近くに坐っていた。恐ろしく蒸暑かった。牧師の話が終ると、メァリイは私を中に案内した。故キャプテンの指は胸の上に組まれ、其の死顔は穏かだった。今にも何か口をききそうであった。之程生々した・美しい蝋細工《ろうざいく》の面を未だ見たことがない。
一礼して私は表へ出た。月が明るく、オレンジの香が何処からか匂っていた、既に此の世の戦を終え、こんな美しい熱帯の夜、乙女等の唄に囲まれて静かに眠っている故人に対して、一種甘美な羨望《せんぼう》の念を私は覚えた。
五月××日
「南洋だより」は、編輯者《へんしゅうしゃ》並びに読者に不満の由。曰《いわ》く、『南洋研究の資料|蒐集《しうしふ》[#ルビの「しうしふ」は底本では「しうしう」]、或ひは科学的観察ならば、又、他に人もあるべし。読者のR・L・S・氏に望む所のものは、固《もと》よりその麗筆に係る南海の猟奇的冒険詩に有之候』冗談ではない。私があの原稿を書く時、頭に浮べていた模範《モデル》は、十八世紀風の紀行文、筆者の主観や情緒を抑えて、即物的な観察に終始した・ああいう行き方なのだ。「宝島」の作者は何時迄も海賊と埋もれた宝物のことを書いていればいいのであって、南海の殖民事情や、土着民の人口減少現象や、布教状態に就いて考察する資格が無いとでもいうのか? やり切れないことには、ファニイ迄が亜米利加《アメリカ》の編輯者と同意見なのだ。「精確な観察よりも、華《はな》やかで面白い話[#「話」に傍点]を書かなければ、」と云うのだ。
大体、私は近頃、従来の自分の極彩色描写が段々|厭《いや》になって来た。最近の私の文体は、次の二つを目指している積りだ。一、無用の形容詞の絶滅。二、視覚的描写への宣戦。ニューヨーク・サン紙の編輯者にもファニイにもロイドにも、未だに此の事が解らないのだ。
「難破船引揚業者《レッカー》」は順調に進捗《しんちょく》しつつある。ロイドの他にイソベルという一層|叮嚀《ていねい》な筆記者が殖えたのは、大いに助かる。
家畜の宰領をしているラファエレに、現在の頭数を聞いて見たら、乳牛三頭、犢《こうし》が牝《めす》牡《おす》各一頭ずつ、馬八頭、(ここ迄は聞かなくても知っている。)豚が三十匹余り。家鴨《あひる》と※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]とは随処に出没するので殆ど無数という外はなく、尚、別に夥《おびただ》しい野良猫共が跋扈《ばっこ》している由。野良猫は家畜なりや?
五月××日
街に、島巡りのサーカスが来たというので、一家総出で見に行く。真昼の大天幕の下、土人の男女の喧騒《けんそう》の中で、生温い風に吹かれながら、曲芸を見る。これが我々にとっての唯一の劇場だ。我々のプロスペロオは球乗《たまのり》の黒熊。ミランダは馬の背に乱舞しつつ火の輪を潜る。
夕方、帰る。何か心|怡《たの》しまず。
六月×日
昨夜八時半頃ロイドと自室にいると、ミタイエレ(十一・二歳の少年召使)がやって来て、一緒に寐《ね》ているパータリセ(最近、戸外労働から室内給仕に昇格した十五・六歳の少年、ワリス島の者で英語は皆目判らず、サモア語も五つしか知らない。)が、急に変な事を言出して気味が悪い、と言った。何でも、「今から森の中にいる家族《うち》の者に逢いに行く。」といって聞かないのだそうだ。「森の中に、あの子の家があるのか?」と聞くと、「あるもんですか。」とミタイエレが言う。直ぐにロイドと、彼等の寝室へ行った。パータリセは睡っている者のように見えたが、何かうわ[#「うわ」に傍点]言を言っている。時々、脅された鼠《ねずみ》の様な声を立てる。身体にさわると冷たい。脈は速くない。呼吸の度に腹が大きく上下する。突然、彼は起上り、頭を低く下げ、前へつんのめるような恰好《かっこう》で、扉に向って走った。(といっても、其の動作は余り速くなく、ぜんまい[#「ぜんまい」に傍点]の弛《ゆる》んだ機械玩具のような奇妙なのろさ[#「のろさ」に傍点]であった。)ロイドと私とが彼をつかまえてベッドに寐かしつけた。暫くして又逃出そうとした。今度は猛烈な勢なので、やむを得ず、みんなで彼をベッドに(シーツや縄で)括《くく》り付けた。パータリセは、そうやって抑え付けられた儘《まま》時々何か呟き、時に、
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