を見ても、かなり事情にも通じているらしい。此の議員宛の書面の中で、私は繰返し、マターファの処刑の厳に失する所以《ゆえん》を説明した。殊に、最近叛乱を起した小タマセセの場合と比較して、その余りに偏頗《へんぱ》なことを。何等罪状の指摘できないマターファ(彼は、いわば喧嘩《けんか》を売られたに過ぎぬのだから)が千|浬《カイリ》離れた孤島に流謫《るたく》され、一方、島内白人の殲滅《せんめつ》を標榜《ひょうぼう》して立った小タマセセは小銃五十|梃《ちょう》の没収で済んだ。こんな莫迦《ばか》な話があるか。今ヤルートにいるマターファの所へはカトリックの牧師以外に誰も行くことが許されない。手紙をやることも出来ぬ。最近、彼の一人娘が敢然禁を犯してヤルートヘ渡ったが、発見されれば、又連戻されるのだろう。
千浬以内にいる彼を救う為に、数万浬彼方の国の輿論《よろん》を動かさねばならぬなんて、妙な話だ。
もしマターファがサモアヘ帰れるようだったら、彼は吃度《きっと》僧職に入るだろう。彼は其の方面の教育を受けてもいるし、又、そうした人柄でもあるのだから。サモア迄は望めずとも、せめてフィジイ島位まで来られたら、そうして、故郷のそれと違わぬ食事、飲料を与えられ、慾には時々我々と会うことが出来たら、どんなにか有難いのだが。
十月×日
「セント・アイヴス」も完成に近くなったが、急に、「ウィア・オヴ・ハーミストン」を続け度くなって、又、取上げた。一昨年、筆を起してから、何度取上げては、何度筆を投げたことやら。今度こそ何とか纏《まと》まりそうだ。自信というよりも、何だか、そんな気がする。
十月××日
此の世に年を経れば経る程、私は一層、途方に暮れた小児のような感じを深くする。私は慣れることが出来ない。この世に――見ることに、聞くことに、斯《か》かる生殖の形式に、斯かる成長の過程に、上品にとりすました生の表面と、下卑て狂気じみた其の底部との対照に――之等は、如何に年をとっても、私には慣れ親しめないものだ。私は年をとればとる程、段々裸に、愚かになるような気がする。「大きくなれば解るよ。」と、子供の時分に、よく言い聞かされたものだが、あれは正《まさ》しく嘘であった。自分は何事も益々分らなくなるばっかりだ。…………之は確かに、不安である。しかし又一方、このために、生に対する自分の好奇心が失われないでいることも事実だ。全く、世の中には、「自分にとって此の人生は、もう何度目かの経験だよ。最早自分は人生から学ぶべき何ものも無いよ。」といった顔をした老人が、実に沢山いる。一体、どんな老人が此の人生を二度目に生活しているというのだ? どんな高齢者だって、彼の今後の生活は、彼にとって初めての経験に違いないではないか。悟ったような顔をした老人共を、私は(私自身は所謂《いわゆる》年寄ではないが、年齢を、死との距離の短かさで計る計算法によれば、決して若くはあるまい。)軽蔑《けいべつ》し、嫌悪する。其の好奇心のない眼付を、殊には、「今の若い者は」といった式の、やにさがった[#「やにさがった」に傍点]ものの言い方を(単に此の遊星の上に生れ出ることが、たかだか二三十年早かったからというだけで、自分の意見への尊重を相手に強いようとする・あのものの言い方を)嫌悪する。Quod curiositate cognoverunt superbia amiserunt.「彼等驚きによりて認めたるものを、傲《おご》りによりて失いたりき」病苦が私に、さほど好奇心の磨滅を齎《もたら》さなかったことを、私は喜ぶ。
十一月×日
午後の日盛りに私は独りでアピア街道を歩いていた。道からちらちらと白い炎が立っていた。眩《まぶ》しかった。街道の果迄見渡しても人一人見えなかった。道の右側は、甘蔗畑《かんしょばたけ》が緑の緩やかな起伏を見せてずっと北迄続き、その果には、燃上る濃藍色《のうらんしょく》の太平洋が雲母末《うんもまつ》のような小皺《こじわ》を畳みながら、円く大きく膨れ上っていた。青焔《せいえん》に揺れる大海原が瑠璃色《るりいろ》の空と続くあたりは、金粉を交えた水蒸気にぼかされて白く霞んで見えた。道の左側には、巨大な羊歯《しだ》族の峡谷を距《へだ》てて、ぎらぎらした豊かな緑の氾濫《はんらん》の上に、タファ山の頂であろうか、突兀《とっこつ》たる菫色《すみれいろ》の稜線《りょうせん》が眩しい靄《もや》の中から覗いている。静かだった。甘蔗の葉摺《はずれ》の外、何も聞えなかった。私は自分の短い影を見ながら歩いていた。かなり長いこと、歩いた。ふと、妙なことが起った。私が、私に聞いたのだ。俺は誰だと。名前なんか符号に過ぎない。一体、お前は何者だ? この熱帯の白い道に痩《や》せ衰えた影を落して、とぼとぼと歩み行くお前は?
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