は初め息子をもエンジニーアに仕立てようと考えていたのだが)は、どうにか之を認め得た父親も、その背教だけは許せなかった。父親の絶望と、母親の涙と、息子の憤激の中に、親子の衝突が屡々《しばしば》繰返された。自分が破滅の淵に陥っていることを悟れない程、未だ子供であり、しかも父の救の言葉を受付けようとしない程、成人《おとな》になっている息子を見て、父親は絶望した。此の絶望は、余りに内省的な彼の上に奇妙な形となって顕《あらわ》れた。幾回かの争の後、彼は最早息子を責めようとせず、ひたすらに我が身を責めた。彼は独り跪《ひざまず》き、泣いて祈り、己の至らざる故に倅《せがれ》を神の罪人としたことを自ら激しく責め、且つ神に詫《わ》びた。息子の方では、科学者たる父が何故こんな愚かしい所行を演ずるのか、どうしても理解できなかった。
それに、彼は、父と争論したあとでは何時も、「どうして親の前に出ると斯《こ》んな子供っぽい議論しか出来なくなるのだろうか」と、自分でいや[#「いや」に傍点]になって了うのである。友人と話合っている時ならば、颯爽《さっそう》とした(少くとも成人《おとな》の)議論の立派に出来る自分なのに、之は一体どうした訳だろう? 最も原始的なカテキズム、幼稚な奇蹟|反駁論《はんばくろん》、最も子供|欺《だま》しの拙劣な例を以て証明されねばならない無神論。自分の思想は斯んな幼稚なものである筈はないのに、と思うのだが、父親と向い合うと、何時も結局は、こんな事になって了う。父親の論法が優れていて此方が負ける、というのでは毛頭ない。教義に就いての細緻《さいち》な思索などをした事のない父親を論破するのは極めて容易だのに、その容易な事をやっている中に、何時の間にか、自分の態度が我ながら厭《いや》になる程、子供っぽいヒステリックな拗《す》ねたものとなり、議論の内容そのもの迄が、可嗤《リディキュラス》なものになっているのだ。父に対する甘え[#「甘え」に傍点]が未だ自分に残っており、(ということは、自分が未だ本当に成人《おとな》でなく)それが、「父が自分をまだ子供と視ていること」と相俟《あいま》って、こうした結果を齎《もたら》すのだろうか? それとも、自分の思想が元来くだらない未熟な借物であって、それが、父の素朴な信仰と対置されて其の末梢的《まっしょうてき》な装飾部分を剥《はぎ》去《さ》られる時、
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