ティヴンスンは、冬の暁毎に何時も烈しい咳の発作に襲われて、寐《ね》ていられなかった。起上り、乳母のカミイに扶《たす》けられ、毛布にくるまって窓際の椅子に腰掛ける。カミイも少年と並んで掛け、咳の静まる迄、互いに黙って、じっと外を見ている。硝子《ガラス》戸《ど》越に見るヘリオット|通り《ロウ》はまだ夜のままで、所々に街灯がぼうっと滲《にじ》んで見える。やがて車の軋《きし》る音がし、窓の前をすれすれに、市場行の野菜車の馬が、白い息を吐き吐き通って行く。…………之がスティヴンスンの記憶に残る最初の此の都の印象だった。
エディンバラのスティヴンスン家は、代々灯台技師として聞えていた。小説家の曾祖父に当るトマス・スミス・スティヴンスンは北英灯台局の最初の技師長であり、その子ロバァトも亦其の職を継いで、有名なベル・ロックの灯台を建設した。ロバァトの三人の息子、アラン、デイヴィッド、トマス、もそれぞれ次々に此の職を襲った。小説家の父、トマスは、廻転灯、総光反射鏡の完成者として、当時、灯台光学の泰斗であった。彼は其の兄弟と協力して、スケリヴォア、チックンスを始め、幾つかの灯台を築き、多くの港湾を修理した。彼は、有能な実際的科学者で、忠実な大英国の技術官で、敬虔《けいけん》なスコットランド教会の信徒で、かの基督《キリスト》教のキケロといわれるラクタンティウスの愛読者で、又、骨董《こっとう》と向日葵《ひまわり》との愛好者だった。彼の息子の記す所によれば、トマス・スティヴンスンは、常に、自己の価値に就いて甚だしく否定的な考を抱き、ケルト的な憂鬱《ゆううつ》を以て、絶えず死を思い無常を観じていたという。
高貴な古都と、其処に住む宗教的な人々(彼の家族をも含めて)とを、青年期のロバァト・ルゥイス・スティヴンスンは激しく嫌悪した。プレスビテリアンの中心たる此の都が、彼には悉く偽善の府と見えたのである。十八世紀の後半、此の都にディーコン・ブロディなる男がいた。昼間は指物師をやり市会議員を勤めていたが、夜になると一変して賭博者《とばくしゃ》となり、兇悪《きょうあく》な強盗となって活躍した。大分久しい後に漸《ようや》く顕《あらわ》れて処刑されたが、この男こそエディンバラ上流人士の象徴だと、二十歳のスティヴンスンは考えた。彼は、通い慣れた教会の代りに、下町の酒場へ通い出した。息子の文学者志望宣言(父
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