負けて、暗い夜(そこが彼等の住居である)へと逃げて行かねばならなかったのだと。

六月×日
 コルヴィンの所から写真を送って来た。ファニイ(感傷的な涙とは凡《およ》そ縁の遠い)が思わず涙をこぼした。
 友人! 何と今の私に、それが欠けていることか! (色々な意味で)対等に話すことの出来る仲間。共通の過去を有《も》った仲間。会話の中に頭註や脚註の要らない仲間。ぞんざいな言葉は使いながらも、心の中では尊敬せずにいられぬ仲間。この快適な気候と、活動的な日々との中で、足りないものは、それだけだ。コルヴィン、バクスター、W・E・ヘンレイ、ゴス、少し遅れて、ヘンリィ・ジェイムズ、思えば俺の青春は豊かな友情に恵まれていた。みんな俺より立派な奴ばかりだ。ヘンレイとの仲違《なかたが》いが、今、最も痛切な悔恨を以て思出される。道理から云って、此方が間違っているとは、さらさら思わない。しかし、理窟なんか問題じゃない。巨大な・捲鬚《まきひげ》の・赭《あか》ら顔の・片脚の・あの男と、蒼ざめた痩《や》せっぽちの俺とが、一緒に秋のスコットランドを旅した時の、あの二十代の健かな歓びを思っても見ろ。あの男の笑い声――「顔と横隔膜とのみの笑ではなく、頭から踵《かかと》に及ぶ全身の笑」が、今も聞えるようだ。不思議な男だった、あの男は。あの男と話していると、世の中に不可能などというものは無いような気がして来る。話している中に、何時か此方迄が、富豪で、天才で、王者で、ランプを手に入れたアラディンであるような気がして来たものだ。…………
 昔の|懐かしい顔《オールド・ファミリアー・フェイシズ》の一つ一つが眼の前に浮かんで来て仕方がない。無用の感傷を避けるため、仕事の中に逃れる。先日から掛かっているサモア紛争史、或いは、サモアに於ける白人横暴史だ。

 しかし、英国とスコットランドとを離れてから、もう丁度、四年になるのだ。

   五

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――サモアに於ては古来地方自治の制、極めて鞏固《きょうこ》にして、名目は王国なれども、王は殆ど政治上の実権を有せず。実際の政治は悉《ことごと》く、各地方のフォノ(会議)によって決定せられたり。王は世襲に非ず。又、必ずしも常置の位にも非ず。古来此の諸島には、其の保持者に王者たるの資格を与うべき・名誉の称号、五つあり。各地方の大酋長《だいしゅうちょう》にして
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