い。
やがて又も河床は乾き、いよいよヴァエア山の嶮《けわ》しい面を上って行く。河床らしいものもなくなり、山頂に近い台地に出る。彷徨《ほうこう》すること暫し、台地が東側の大峡谷に落ちこむ縁の所に、一本の素晴らしい巨樹を見付けた。榕樹《ガジマル》だ。高さは二百|呎《フィート》もあろう。巨幹と数知れぬ其の従者共(気根)とは、地球を担うアトラスの様に、怪鳥の翼を拡げたるが如き大枝の群を支え、一方、枝々の嶺《みね》の中には、羊歯・蘭類がそれぞれ又一つの森のように叢《むら》がり茂っている。枝々の群は、一つの途方もなく大きな円蓋《ドーム》だ。それは層々※[#「壘」の「土」に代えて「糸」、第3水準1−90−24]々と盛上って、明るい西空(既に大分夕方に近くなっていた)に高く向い合い、東の方《かた》数|哩《マイル》の谿《たに》から野にかけて蜿蜒《えんえん》と拡がる其の影の巨《おお》きさ! 誠に、何とも豪宕《ごうとう》な観ものであった。
もう遅いので慌てて、帰途に就く。馬を繋いで置いた所へ来て見ると、ジャックは半狂乱の態だ。独りぼっちで森の中に半日捨て置かれた恐怖の為らしい。ヴァエア山にはアイトゥ・ファフィネなる女怪が出ると土人は云うから、ジャックはそれを見たのかも知れぬ。何度もジャックに蹴られそうになりながら、漸《ようや》くのことで宥《なだ》めて、連れ帰った。
五月×日
午後、ベル(イソベル)のピアノに合せて銀笛《フラジオレット》を吹く。クラックストン師来訪。「|壜の魔物《ボットル・イムプ》」をサモア語に訳して、オ・レ・サル・オ・サモア誌に載せ度き由。欣《よろこ》んで承諾。自分の短篇の中でも、ずっと昔の「ねじけジャネット」や、この寓話《ぐうわ》など、作者の最も好きなものだ。南海を舞台にした話だから、案外土人達も喜ぶかも知れない。之で愈々《いよいよ》私は彼等のツシタラ(物語の語り手)となるのだ。
夜、寝に就いてから、雨の音。海上遠く微かな稲妻。
五月××日
街へ下りる。殆ど終日為替のことでゴタゴタ。銀の騰落は、此の地に於ては頗《すこぶ》る大問題なり。
午後、港内に碇泊《ていはく》中の船々に弔旗揚がる。土人の女を妻とし、サメソニの名を以て島民に親しまれていたキャプテン・ハミルトンが死んだのだ。
夕方、米国領事館の方へ歩いて見た。満月の美しい夜。マタウトゥの角を曲った時、
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