を呼び起したんだよ。もう大丈夫。豚盗人は、魔物がつかまえて呉れるから。」
 三十分後、ラファエレは心配そうな顔をして、又、我々の所へ来る。さっきの魔物の話は本当かと念を押す。
「本当だよ。盗《と》った男が今晩|寐《ね》ると、魔物も其処へ寐に行くんだよ。じきに其の男は病気になるだろうよ。豚を盗った酬《むくい》さ。」
 幽霊信者の巨漢は益々不安の面持になる。彼が犯人とは思わないが、犯人を知っていることだけは確かのようだ。そして、恐らく今晩あたり其の仔豚の饗宴《きょうえん》にあずかるであろうことも。但し、ラファエレにとって、それは余り楽しい食事ではなくなるだろう。

 此の間、森の中で思い付いた例の物語、どうやら頭の中で大分|醗酵《はっこう》して来たようだ。題は、「ウルファヌアの高原林」とつけようかと思う。ウルは森。ファヌアは土地。美しいサモア語だ。之を作品中の島の名前に使うつもり。未だ書かない作品中の色々な場面が、紙芝居の絵のように次から次へと現れて来て仕方がない。非常に良い叙事詩になるかも知れぬ。実に下らない甘ったるいメロドラマに堕する危険も多分にありそうだ。何か電気でも孕《はら》んだような工合で、今執筆中の「南洋だより」のような紀行文など、ゆっくり書いていられなくなる。随筆や詩(もっとも、私の詩は、いきぬき[#「いきぬき」に傍点]の為の娯楽の詩だから、話にならないが)を書いている時は、決して、こんな興奮に悩まされることはないのだが。

 夕方、巨樹の梢と、山の背後とに、壮大な夕焼。やがて、低地と海との彼方から満月が出ると、此の地には珍しい寒さが始まった。誰一人眠れない。皆起出して、掛蒲団《かけぶとん》を探す。何時頃だったろう。――外は昼のように明るかった。月は正にヴァエア山巓《さんてん》に在った。丁度真西だ。鳥共も奇妙に静まり返っている。家の裏の森も寒さに疼《うず》いているように見えた。
 六十度より降《くだ》ったに違いない。

   三

 明けて一八九一年の正月になると、旧宅、ボーンマスのスケリヴォア荘から、家財道具一切を纏《まと》めて、ロイドがやって来た。ロイドはファニイの息子で、最早二十五歳になっていた。
 十五年前フォンテンブロオの森でスティヴンスンが始めてファニイに会った時、彼女は既に廿歳に近い娘と九歳になる男の児との母親であった。娘はイソベル、男の児は
前へ 次へ
全89ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング