実際に私の経験したことだが…………ハッと気がつく。私の倒れている鼻の先には、高い黒い塀が突立っている。夜更のアピアの街のこととて何処も彼処も真暗だが、此の高い塀は、其処から二十|碼《ヤード》ばかり行くと切れていて、その向うには、どうやら薄黄色い光が流れているらしい。私はよろよろ立上り、それでも傍に落ちていたヘルメット帽を拾って、其の黴臭い・いやなにおい[#「におい」に傍点]のする塀――過去の、おかしな場面を呼起したのは、此のにおい[#「におい」に傍点]かも知れぬ――を伝って、光のさす方へ歩いて行った。塀は間もなく切れて、向うをのぞくと、ずっと遠くに街灯が一つ、ひどく小さく、遠眼鏡で見た位に、ハッキリと見える。そこは、やや広い往来で、道の片側には、今の塀の続きが連なり、その上に覗き出した木の茂みが、下から薄い光を受けながら、ざわざわ風に鳴っている。何ということなしに、私は、其の通を少し行って左へ曲れば、ヘリオット・ロウ(自分が少年期を過したエディンバラの)の我が家に帰れるように考えていた。再びアピアということを忘れ、故郷の街にいる積りになっていたらしい。暫く光に向って進んで行く中に、ひょいと、しかし今度は確かに眼が覚めた。そうだ。アピアだぞ、此処は。――すると、鈍い光に照らされた往来の白い埃《ほこり》や、自分の靴の汚れにもハッキリ気が付いた。ここはアピア市で、自分は今フンク氏の家からホテル迄歩いて行く途中で、…………と、其処で、やっと完全に私は意識を取戻したのだ。
 大脳の組織の何処かに間隙でも出来ていたような気がする。酔っただけで倒れたのではないような気がする。
 或いは、こんな変な事を詳しく書留めて置こうとすること自体が、既に幾分病的なのかも知れない。

八月×日
 医者に執筆を禁じられた。全然よす訳には行かないが、近頃は毎朝二三時間畑で過すことにしている。之は大変工合が良いようだ。ココア栽培で一日十|磅《ポンド》も稼げれば、文学なんか他人《ひと》に呉れてやってもいいんだが。
 うち[#「うち」に傍点]の畑でとれるもの――キャベツ、トマト、アスパラガス、豌豆《えんどう》、オレンジ、パイナップル、グースベリィ、コール・ラビ、バーバディン、等。
「セント・アイヴス」も、そう悪い出来とは思わないが、兎角、難航だ。目下、オルムのヒンドスタン史を読んでいるが、大変面白い。十
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