の一人が、死んだ父の霊を見たというのだ。夕方、その男が、死んでから二十日ばかりになる父の墓の前に佇《たたず》んでいた。ふと気がつくと、何時の間にか、一羽の雪白の鶴が珊瑚《さんご》屑の塚の上に立っている。之こそは父の魂だと、そう思いながら見ている中に、鶴の数が殖えて来て、中には黒鶴も交っていた。その中に、何時か彼等の姿が消え、その代りに塚の上には、今度は白猫が一匹いる。やがて、白猫の周りに、灰色、三毛、黒、と、あらゆる毛色の猫共が、幻のように音も無く、鳴声一つ立てずに忍び寄って来た。その中に、其等の姿も周囲の夕闇の中へ融去って了った。鶴になった父親の姿を見たと其の男は堅く信じている…………云々《うんぬん》。
十二月××日
午前中、稜鏡《プリズム》羅針儀を借りて来て仕事にかかる。この器械に私は一八七一年以来触れたことがなく、又、それに就いて考えたこともなかったのだが、兎に角、三角形を五つ引いた。エディンバラ大学工科卒業生たるの誇を新たにする。だが、何という怠惰な学生で私はあったか! ブラッキイ教授やテイト教授のことを、ひょいと思出した。
午後は又、植物共のあらわな生命力との無言の闘争。こうして斧《おの》や鎌を揮《ふる》って六|片《ペンス》分も働くと、私の心は自己満足でふくれ返るのに、家の中で机に向って二十|磅《ポンド》稼いでも、愚かな良心は、己の怠惰と時間の空費とを悼むのだ。之は一体どうした訳か。
働きながら、ふと考えた。俺は幸福か? と。しかし、幸福というやつ[#「やつ」に傍点]は解らぬ。それは自意識以前のものだ。が、快楽なら今でも知っている。色々な形の・多くの快楽を。(どれも之も完全なものとてないが。)其等の快楽の中で、私は、「熱帯林の静寂の中で唯一人斧を揮う」この伐木作業を、高い位置に置くものだ。誠に、「歌の如く、情熱の如く」此の仕事は私を魅する。現在の生活を、私は、他の如何なる環境とも取換えたく思わない。しかも一方、正直な所を云えば、私は今、或る強い嫌悪の情で、絶えずゾッとしているのだ。本質的にそぐわない環境の中へ強いて身を投じた者の感じねばならない肉体的な嫌悪というやつ[#「やつ」に傍点]だろうか。神経を逆撫する荒っぽい残酷さが、何時も私の心を押しつける。蠢《うごめ》き、まつわるものの、いやらしさ。周囲の空寂と神秘との迷信的な不気味さ。私自身の荒廃の感
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