あるのだと、俺《おれ》は考える。もっとも、あの不埒《ふらち》な八戒《はっかい》の解釈によれば、俺たちの――少なくとも悟空《ごくう》の師父に対する敬愛の中には、多分に男色的要素が含まれているというのだが。
まったく、悟空《ごくう》のあの実行的な天才に比べて、三蔵法師は、なんと実務的には鈍物《どんぶつ》であることか! だが、これは二人の生きることの目的が違うのだから問題にはならぬ。外面的な困難にぶつかったとき、師父は、それを切抜ける途《みち》を外に求めずして、内に求める。つまり自分の心をそれに耐えうるように構えるのである。いや、そのとき慌《あわ》てて構えずとも、外的な事故によって内なるものが動揺を受けないように、平生《へいぜい》から構えができてしまっている。いつどこで窮死《きゅうし》してもなお幸福でありうる心を、師はすでに作り上げておられる。だから、外に途を求める必要がないのだ。我々から見ると危《あぶ》なくてしかたのない肉体上の無防禦《むぼうぎょ》も、つまりは、師の精神にとって別にたいした影響はないのである。悟空のほうは、見た眼にはすこぶる鮮やかだが、しかし彼の天才をもってしてもなお打開できないような事態が世には存在するかもしれぬ。しかし、師の場合にはその心配はない。師にとっては、何も打開する必要がないのだから。
悟空には、嚇怒《かくど》はあっても苦悩はない。歓喜はあっても憂愁《ゆうしゅう》はない。彼が単純にこの生を肯定《こうてい》できるのになんの不思議もない。三蔵法師の場合はどうか? あの病身と、禦《ふせ》ぐことを知らない弱さと、常に妖怪《ようかい》どもの迫害を受けている日々とをもってして、なお師父《しふ》は怡《たの》しげに生を肯《うべな》われる。これはたいしたことではないか!
おかしいことに、悟空は、師の自分より優《まさ》っているこの点を理解していない。ただなんとなく師父から離れられないのだと思っている。機嫌《きげん》の悪いときには、自分が三蔵法師に随《したが》っているのは、ただ緊箍咒《きんそうじゅ》(悟空の頭に箝《は》められている金の輪で、悟空が三蔵法師の命に従わぬときにはこの輪が肉に喰《く》い入って彼の頭を緊《し》め付け、堪えがたい痛みを起こすのだ。)のためだ、などと考えたりしている。そして「世話の焼ける先生だ。」などとブツブツ言いながら、妖怪に捕えられた師父を救い出しに行くのだ。「あぶなくて見ちゃいられない。どうして先生はああなんだろうなあ!」と言うとき、悟空はそれを弱きものへの憐愍《れんびん》だと自惚《うぬぼ》れているらしいが、実は、悟空の師に対する気持の中に、生き物のすべてがもつ・優者に対する本能的な畏敬《いけい》、美と貴さへの憧憬《どうけい》がたぶんに加わっていることを、彼はみずから知らぬのである。
もっとおかしいのは、師父自身が、自分の悟空に対する優越をご存じないことだ。妖怪の手から救い出されるたびごとに、師は涙を流して悟空に感謝される。「お前が助けてくれなかったら、わし[#「わし」に傍点]の生命はなかったろうに!」と。だが、実際は、どんな妖怪に喰《く》われようと、師の生命は死にはせぬのだ。
二人とも自分たちの真の関係を知らずに、互いに敬愛し合って(もちろん、ときにはちょっとしたいさかい[#「いさかい」に傍点]はあるにしても)いるのは、おもしろい眺めである。およそ対蹠《たいせき》的なこの二人の間に、しかし、たった一つ共通点があることに、俺《おれ》は気がついた。それは、二人がその生き方において、ともに、所与《しょよ》を必然と考え、必然を完全と感じていることだ。さらには、その必然を自由と看做《みな》していることだ。金剛石《こんごうせき》と炭とは同じ物質からでき上がっているのだそうだが、その金剛石と炭よりももっと違い方のはなはだしいこの二人の生き方が、ともにこうした現実の受取り方の上に立っているのはおもしろい。そして、この「必然と自由の等置《とうち》」こそ、彼らが天才であることの徴《しるし》でなくてなんであろうか?
悟空《ごくう》、八戒《はっかい》、俺《おれ》と我々三人は、まったくおかしいくらいそれぞれに違っている。日が暮れて宿がなく、路傍の廃寺に泊まることに相談が一決するときでも、三人はそれぞれ違った考えのもとに一致しているのである。悟空はかかる廃寺こそ究竟《くっきょう》の妖怪《ようかい》退治の場所だとして、進んで選ぶのだ。八戒は、いまさらよそを尋ねるのも億劫《おっくう》だし、早く家にはいって食事もしたいし、眠くもあるし、というのだし、俺の場合は、「どうせこのへんは邪悪な妖精《ようせい》に満ちているのだろう。どこへ行ったって災難に遭《あ》うのだとすれば、ここを災難の場所として選んでもいいではないか」と考えるのだ。生きものが三人寄れば、皆このように違うものであろうか? 生きものの生き方ほどおもしろいものはない。
孫行者《そんぎょうじゃ》の華《はな》やかさに圧倒されて、すっかり影の薄らいだ感じだが、猪悟能八戒《ちょごのうはっかい》もまた特色のある男には違いない。とにかく、この豚は恐ろしくこの生を、この世を愛しておる。嗅覚《きゅうかく》・味覚・触覚のすべてを挙げて、この世に執《しゅう》しておる。あるとき八戒《はっかい》が俺《おれ》に言ったことがある。「我々が天竺《てんじく》へ行くのはなんのためだ? 善業を修《ず》して来世に極楽に生まれんがためだろうか? ところで、その極楽《ごくらく》とはどんなところだろう。蓮《はす》の葉の上に乗っかってただゆらゆら揺れているだけではしようがないじゃないか。極楽にも、あの湯気の立つ羹《あつもの》をフウフウ吹きながら吸う楽しみや、こりこり[#「こりこり」に傍点]皮の焦《こ》げた香ばしい焼肉を頬張《ほおば》る楽しみがあるのだろうか? そうでなくて、話に聞く仙人のようにただ霞《かすみ》を吸って生きていくだけだったら、ああ、厭《いや》だ、厭だ。そんな極楽なんか、まっぴらだ! たとえ、辛《つら》いことがあっても、またそれを忘れさせてくれる・堪えられぬ怡《たの》しさのあるこの世がいちばんいいよ。少なくとも俺《おれ》にはね。」そう言ってから八戒は、自分がこの世で楽しいと思う事柄を一つ一つ数え立てた。夏の木蔭《こかげ》の午睡。渓流の水浴。月夜の吹笛《すいてき》。春暁の朝寐《あさね》。冬夜の炉辺歓談。……なんと愉《たの》しげに、また、なんと数多くの項目を彼は数え立てたことだろう! ことに、若い女人の肉体の美しさと、四季それぞれの食物の味に言い及んだとき、彼の言葉はいつまで経《た》っても尽きぬもののように思われた。俺はたまげてしまった。この世にかくも多くの怡《たの》しきことがあり、それをまた、かくも余すところなく味わっているやつがいようなどとは、考えもしなかったからである。なるほど、楽しむにも才能の要《い》るものだなと俺《おれ》は気がつき、爾来《じらい》、この豚を軽蔑《けいべつ》することを止《や》めた。だが、八戒《はっかい》と語ることが繁《しげ》くなるにつれ、最近妙なことに気がついてきた。それは、八戒の享楽主義の底に、ときどき、妙に不気味なものの影がちらり[#「ちらり」に傍点]と覗《のぞ》くことだ。「師父《しふ》に対する尊敬と、孫行者《そんぎょうじゃ》への畏怖《いふ》とがなかったら、俺はとっくにこんな辛《つら》い旅なんか止《や》めてしまっていたろう。」などと口では言っている癖に、実際はその享楽家的な外貌《がいぼう》の下に戦々兢々《せんせんきょうきょう》として薄氷《はくひょう》を履《ふ》むような思いの潜んでいることを、俺は確かに見抜いたのだ。いわば、天竺《てんじく》へのこの旅が、あの豚にとっても(俺にとってと同様)、幻滅と絶望との果てに、最後に縋《すが》り付いたただ一筋の糸に違いないと思われる節《ふし》が確かにあるのだ。だが、今は八戒の享楽主義の秘密への考察に耽《ふけ》っているわけにはいかぬ。とにかく、今のところ、俺は孫行者《そんぎょうじゃ》からあらゆるものを学び取らねばならぬのだ。他のことを顧みている暇はない。三蔵法師の智慧《ちえ》や八戒の生き方は、孫行者を卒業してからのことだ。まだまだ、俺は悟空《ごくう》からほとんど何ものをも学び取っておりはせぬ。流沙河《りゅうさが》の水を出てから、いったいどれほど進歩したか? 依然たる呉下《ごか》の旧阿蒙《きゅうあもう》ではないのか。この旅行における俺の役割にしたって、そうだ。平穏無事のときに悟空の行きすぎを引き留め、毎日の八戒の怠惰《たいだ》を戒《いまし》めること。それだけではないか。何も積極的な役割がないのだ。俺みたいな者は、いつどこの世に生まれても、結局は、調節者、忠告者、観測者にとどまるのだろうか。けっして行動者にはなれないのだろうか?
孫行者の行動を見るにつけ、俺は考えずにはいられない。「燃え盛る火は、みずからの燃えていることを知るまい。自分は燃えているな、などと考えているうちは、まだほんとうに燃えていないのだ。」と。悟空《ごくう》の闊達無碍《かったつむげ》の働きを見ながら俺《おれ》はいつも思う。「自由な行為とは、どうしてもそれをせずにはいられないもの[#「もの」に傍点]が内に熟してきて、おのずと外に現われる行為の謂《いい》だ。」と。ところで、俺はそれを思うだけなのだ。まだ一歩でも悟空についていけないのだ。学ぼう、学ぼうと思いながらも、悟空の雰囲気《ふんいき》の持つ桁違《けたちが》いの大きさに、また、悟空的なるものの肌合《はだあ》いの粗《あら》さに、恐れをなして近づけないのだ。実際、正直なところを言えば、悟空は、どう考えてもあまり有難《ありがた》い朋輩《ほうばい》とは言えない。人の気持に思い遣《や》りがなく、ただもう頭からガミガミ怒鳴り付ける。自己の能力を標準にして他人《ひと》にもそれを要求し、それができないからとて怒《おこ》りつけるのだから堪《たま》らない。彼は自分の才能の非凡さについての自覚がないのだとも言える。彼が意地悪でないことだけは、確かに俺たちにもよく解《わか》る。ただ彼には弱者の能力の程度がうまく[#「うまく」に傍点]呑《の》み込めず、したがって、弱者の狐疑《こぎ》・躊躇《ちゅうちょ》・不安などにいっこう同情がないので、つい、あまりのじれったさ[#「じれったさ」に傍点]に疳癪《かんしゃく》を起こすのだ。俺たちの無能力が彼を怒らせさえしなければ、彼は実に人の善い無邪気な子供のような男だ。八戒はいつも寐《ね》すごしたり怠《なま》けたり化け損《そこな》ったりして、怒られどおしである。俺が比較的彼を怒らせないのは、今まで彼と一定の距離を保っていて彼の前にあまりボロを出さないようにしていたからだ。こんなことではいつまで経《た》っても学べるわけがない。もっと悟空に近づき、いかに彼の荒さが神経にこたえようとも、どんどん叱《しか》られ殴《なぐ》られ罵《ののし》られ、こちらからも罵り返して、身をもってあの猿《さる》からすべてを学び取らねばならぬ。遠方から眺めて感嘆しているだけではなんにもならない。
夜。俺《おれ》は独《ひと》り目覚めている。
今夜は宿が見つからず、山蔭《やまかげ》の渓谷の大樹の下に草を藉《し》いて、四人がごろ[#「ごろ」に傍点]寐《ね》をしている。一人おいて向こうに寐ているはずの悟空《ごくう》の鼾《いびき》が山谷《さんこく》に谺《こだま》するばかりで、そのたびに頭上の木の葉の露がパラパラと落ちてくる。夏とはいえ山の夜気はさすがにうすら寒い。もう真夜中は過ぎたに違いない。俺は先刻から仰向《あおむ》けに寐ころんだまま、木の葉の隙《あいだ》から覗《のぞ》く星どもを見上げている。寂しい。何かひどく寂しい。自分があの淋《さび》しい星の上にたった独りで立って、まっ暗な・冷たい・なんにもない世界の夜を眺めているような気がする。星というやつは、以前から、永遠だの無限だのということを考えさせるので、どうも苦手《にがて》だ。それ
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