のできぬ俺と比べて、なんという相異だろう! 目に一丁字《いっていじ》のないこの猴《さる》の前にいるときほど、文字による教養の哀れさを感じさせられることはない。
悟空《ごくう》の身体の部分部分は――目も耳も口も脚も手も――みんないつも嬉《うれ》しくて堪《たま》らないらしい。生き生きとし、ピチピチしている。ことに戦う段になると、それらの各部分は歓喜のあまり、花にむらがる夏の蜂《はち》のようにいっせいにワァーッと歓声を挙げるのだ。悟空の戦いぶりが、その真剣な気魄《きはく》にもかかわらず、どこか遊戯《ゆうげ》の趣を備えているのは、このためであろうか。人はよく「死ぬ覚悟で」などというが、悟空という男はけっして死ぬ覚悟[#「死ぬ覚悟」に傍点]なんかしない。どんな危険に陥った場合でも、彼はただ、今自分のしている仕事(妖怪《ようかい》を退治するなり、三蔵法師《さんぞうほうし》を救い出すなり)の成否を憂えるだけで、自分の生命のことなどは、てんで考えの中に浮かんでこないのである。太上老君《たいじょうろうくん》の八卦炉《はっけろ》中に焼殺されかかったときも、銀角大王の泰山《たいざん》圧頂の法に遭《お》うて、泰山・須弥山《しゅみせん》・峨眉山《がびさん》の三山の下に圧《お》し潰《つぶ》されそうになったときも、彼はけっして自己の生命のために悲鳴を上げはしなかった。最も苦しんだのは、小雷音寺《しょうらいおんじ》の黄眉《こうび》老仏のために不思議な金鐃《きんにょう》の下に閉じ込められたときである。推《お》せども突けども金鐃は破れず、身を大きく変化させて突破ろうとしても、悟空の身が大きくなれば金鐃も伸びて大きくなり、身を縮めれば金鐃もまた縮まる始末で、どうにもしようがない。身の毛を抜いて錐《きり》と変じ、これで穴を穿《うが》とうとしても、金鐃には傷一つつかない。そのうちに、ものを蕩《と》かして水と化するこの器の力で、悟空の臀部《でんぶ》のほうがそろそろ柔らかくなりはじめたが、それでも彼はただ妖怪に捕えられた師父《しふ》の身の上ばかりを気遣《きづか》っていたらしい。悟空には自分の運命に対する無限の自信があるのだ(自分ではその自信を意識していないらしいが。)やがて、天界から加勢に来た亢金竜《こうきんりょう》がその鉄のごとき角をもって満身の力をこめ、外から金鐃《きんにょう》を突通した。角はみごとに内まで突通ったが、この金鐃はあたかも人の肉のごとくに角に纏《まと》いついて、少しの隙《すき》もない。風の洩《も》るほどの隙間《すきま》でもあれば、悟空は身をけし[#「けし」に傍点]粒と化して脱《のが》れ出るのだが、それもできない。半ば臀部は溶けかかりながら、苦心|惨憺《さんたん》の末、ついに耳の中から金箍棒《きんそうぼう》を取出して鋼鑚《きり》に変え、金竜の角の上に孔《あな》を穿《うが》ち、身を芥子粒《けしつぶ》に変じてその孔《あな》に潜《ひそ》み、金竜に角を引抜かせたのである。ようやく助かったのちは、柔らかくなった己《おのれ》の尻《しり》のことを忘れ、すぐさま師父《しふ》の救い出しにかかるのだ。あとになっても、あのときは危なかったなどとけっして言ったことがない。「危ない」とか「もうだめだ」とか、感じたことがないのだろう。この男は、自分の寿命とか生命とかについて考えたこともないに違いない。彼の死ぬときは、ポクンと、自分でも知らずに死んでいるだろう。その一瞬前までは溌剌《はつらつ》と暴れ廻《まわ》っているに違いない。まったく、この男の事業は、壮大という感じはしても、けっして悲壮な感じはしないのである。
猿《さる》は人真似《ひとまね》をするというのに、これはまた、なんと人真似をしない猴《さる》だろう! 真似どころか、他人から押付けられた考えは、たといそれが何千年の昔から万人に認められている考え方であっても、絶対に受付けないのだ。自分で充分に納得《なっとく》できないかぎりは。
因襲《いんしゅう》も世間的名声もこの男の前にはなんの権威もない。
悟空《ごくう》の今一つの特色は、けっして過去を語らぬことである。というより、彼は、過去《すぎさ》ったことは一切忘れてしまうらしい。少なくとも個々の出来事は忘れてしまうのだ。その代わり、一つ一つの経験の与えた教訓はその都度《つど》、彼の血液の中に吸収され、ただちに彼の精神および肉体の一部と化してしまう。いまさら、個々の出来事を一つ一つ記憶している必要はなくなるのである。彼が戦略上の同じ誤りをけっして二度と繰返さないのを見ても、これは判《わか》る。しかも彼はその教訓を、いつ、どんな苦い経験によって得たのかは、すっかり忘れ果てている。無意識のうちに体験を完全に吸収する不思議な力をこの猴《さる》は有《も》っているのだ。
ただし、彼にもけっして忘れることのできぬ怖《おそ》ろしい体験がたった[#「たった」に傍点]一つあった。あるとき彼はそのときの恐ろしさを俺《おれ》に向かってしみじみと語ったことがある。それは、彼が始めて釈迦如来《しゃかにょらい》に知遇《ちぐう》し奉ったときのことだ。
そのころ、悟空は自分の力の限界を知らなかった。彼が藕糸歩雲《ぐうしほうん》の履《くつ》を穿《は》き鎖子《さし》黄金の甲《よろい》を着け、東海竜王《とうかいりゅうおう》から奪った一万三千五百|斤《きん》の如意金箍棒《にょいきんそうぼう》を揮《ふる》って闘うところ、天上にも天下にもこれに敵する者がないのである。列仙《れっせん》の集まる蟠桃会《はんとうえ》を擾《さわ》がし、その罰として閉じ込められた八卦炉《はっけろ》をも打破って飛出すや、天上界も狭しとばかり荒れ狂うた。群がる天兵を打倒し薙《な》ぎ倒し、三十六員の雷将を率《ひき》いた討手《うって》の大将|祐聖真君《ゆうせいしんくん》を相手に、霊霄殿《りょうしょうでん》の前に戦うこと半日余り。そのときちょうど、迦葉《かしょう》・阿難《あなん》の二|尊者《そんじゃ》を連れた釈迦牟尼如来《しゃかむににょらい》がそこを通りかかり、悟空の前に立ち塞《ふさ》がって闘いを停《と》めたもうた。悟空が怫然《ふつぜん》として喰《く》ってかかる。如来が笑いながら言う。「たいそう威張《いば》っているようだが、いったい、お前はいかなる道を修《ず》しえたというのか?」悟空|曰《いわ》く「東勝神州|傲来国《ごうらいこく》華果山《かかざん》に石卵より生まれたるこの俺《おれ》の力を知らぬとは、さてさて愚かなやつ。俺はすでに不老長生《ふろうちょうせい》の法を修《ず》し畢《おわ》り、雲に乗り風に御《ぎょ》し一瞬に十万八千里を行く者だ。」如来|曰《いわ》く、「大きなことを言うものではない。十万八千里はおろかわが掌《てのひら》に上って、さて、その外へ飛出すことすらできまいに。」「何を!」と腹を立てた悟空《ごくう》は、いきなり如来《にょらい》の掌《てのひら》の上に跳《おど》り上がった。「俺《おれ》は通力《つうりき》によって八十万里を飛行《ひぎょう》するのに、※[#「にんべん+爾」、第3水準1−14−45]《なんじ》の掌の外に飛出せまいとは何事だ!」言いも終わらず※[#「角+力」、第3水準1−91−90]斗雲《きんとうん》に打乗ってたちまち二、三十万里も来たかと思われるころ、赤く大いなる五本の柱を見た。渠《かれ》はこの柱のもとに立寄り、真中の一本に、斉天大聖到此一遊《せいてんたいせいとうしいちゆう》と墨くろぐろと書きしるした。さてふたたび雲に乗って如来の掌に飛帰り、得々《とくとく》として言った。「掌どころか、すでに三十万里の遠くに飛行して、柱にしるしを留《とど》めてきたぞ!」「愚かな山猿《やまざる》よ!」と如来は笑った。「汝《なんじ》の通力がそもそも何事を成しうるというのか? 汝は先刻からわが掌の内を往返したにすぎぬではないか。嘘《うそ》と思わば、この指を見るがよい。」悟空が異《あや》しんで、よくよく見れば、如来の右手の中指に、まだ墨痕《ぼっこん》も新しく、斉天大聖到此一遊と己《おのれ》の筆跡で書き付けてある。「これは?」と驚いて振仰《ふりあお》ぐ如来の顔から、今までの微笑が消えた。急に厳粛《げんしゅく》に変わった如来の目が悟空をキッと見据《みす》えたまま、たちまち天をも隠すかと思われるほどの大きさに拡《ひろ》がって、悟空の上にのしかかってきた。悟空は総身《そうみ》の血が凍るような怖ろしさを覚え、慌《あわ》てて掌の外へ跳《と》び出そうとしたとたんに、如来が手を翻《ひるがえ》して彼を取抑え、そのまま五指を化して五行山《ごぎょうざん》とし、悟空をその山の下に押込め、※[#「口+奄」、第3水準1−15−6]嘛※[#「口+尼」、第4水準2−3−73]叭※[#「口+迷」、174−17]吽《おんまにはつめいうん》の六字を金書して山頂に貼《は》りたもうた。世界が根柢《こんてい》から覆《くつがえ》り、今までの自分が自分でなくなったような昏迷《こんめい》に、悟空はなおしばらく顫《ふる》えていた。事実、世界は彼にとってそのとき以来一変したのである。爾後《じご》、餓《う》うるときは鉄丸を喰《くら》い、渇《かっ》するときは銅汁を飲んで、岩窟《がんくつ》の中に封じられたまま、贖罪《しょくざい》の期の充《み》ちるのを待たねばならなかった。悟空は、今までの極度の増上慢《ぞうじょうまん》から、一転して極度の自信のなさに堕《お》ちた。彼は気が弱くなり、ときには苦しさのあまり、恥も外聞も構わずワアワアと大声で哭《な》いた。五百年|経《た》って、天竺《てんじく》への旅の途中にたまたま通りかかった三蔵法師《さんぞうほうし》が五行山頂の呪符《じゅふ》を剥《は》がして悟空を解き放ってくれたとき、彼はまたワアワアと哭いた。今度のは嬉《うれ》し涙であった。悟空が三蔵に随《したが》ってはるばる天竺までついて行こうというのも、ただこの嬉しさありがたさからである。実に純粋で、かつ、最も強烈な感謝であった。
さて、今にして思えば、釈迦牟尼《しゃかむに》によって取抑えられたときの恐怖が、それまでの悟空の・途方もなく大きな(善悪以前の)存在に、一つの地上的制限を与えたもののようである。しかもなお、この猿の形をした大きな存在が地上の生活に役立つものとなるためには、五行山の重みの下に五百年間押し付けられ、小さく凝集《ぎょうしゅう》する必要があったのである。だが、凝固《ぎょうこ》して小さくなった現在の悟空が、俺《おれ》たちから見ると、なんと、段違いにすばらしく大きくみごとであることか!
三蔵法師は不思議な方である。実に弱い。驚くほど弱い。変化《へんげ》の術ももとより知らぬ。途《みち》で妖怪《ようかい》に襲われれば、すぐに掴《つか》まってしまう。弱いというよりも、まるで自己防衛の本能がないのだ。この意気地のない三蔵法師に、我々三人が斉《ひと》しく惹《ひ》かれているというのは、いったいどういうわけだろう? (こんなことを考えるのは俺だけだ。悟空《ごくう》も八戒《はっかい》もただなんとなく師父《しふ》を敬愛しているだけなのだから。)私は思うに、我々は師父のあの弱さの中に見られるある悲劇的なものに惹《ひ》かれるのではないか。これこそ、我々・妖怪からの成上がり者には絶対にないところのものなのだから。三蔵法師は、大きなものの中における自分の(あるいは人間の、あるいは生き物の)位置を――その哀れさと貴《とうと》さとをハッキリ悟っておられる。しかも、その悲劇性に堪えてなお、正しく美しいものを勇敢に求めていかれる。確かにこれだ、我々になくて師に在《あ》るものは。なるほど、我々は師よりも腕力がある。多少の変化の術も心得ている。しかし、いったん己《おのれ》の位置の悲劇性を悟ったが最後、金輪際《こんりんざい》、正しく美しい生活を真面目《まじめ》に続けていくことができないに違いない。あの弱い師父《しふ》の中にある・この貴い強さには、まったく驚嘆のほかはない。内なる貴さが外《そと》の弱さに包まれているところに、師父の魅力が
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