つたな》い筆を加えるのを愧《は》じる気持からである。

 災厄《さいやく》は、悟空《ごくう》の火にとって、油である。困難に出会うとき、彼の全身は(精神も肉体も)焔々《えんえん》と燃上がる。逆に、平穏無事のとき、彼はおかしいほど、しょげている。独楽《こま》のように、彼は、いつも全速力で廻《まわ》っていなければ、倒れてしまうのだ。困難な現実も、悟空にとっては、一つの地図――目的地への最短の路がハッキリと太く線を引かれた一つの地図として映るらしい。現実の事態の認識と同時に、その中にあって自己の目的に到達すべき道が、実に明瞭《めいりょう》に、彼には見えるのだ。あるいは、その途《みち》以外の一切が見えない、といったほうがほんとうかもしれぬ。闇夜《やみよ》の発光文字のごとくに、必要な途《みち》だけがハッキリ浮かび上がり、他は一切見えないのだ。我々|鈍根《どんこん》のものがいまだ茫然《ぼうぜん》として考えも纏《まと》まらないうちに、悟空はもう行動を始める。目的への最短の道に向かって歩き出しているのだ。人は、彼の武勇や腕力を云々《うんぬん》する。しかし、その驚くべき天才的な智慧《ちえ》については案外知
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