の旧阿蒙《きゅうあもう》ではないのか。この旅行における俺の役割にしたって、そうだ。平穏無事のときに悟空の行きすぎを引き留め、毎日の八戒の怠惰《たいだ》を戒《いまし》めること。それだけではないか。何も積極的な役割がないのだ。俺みたいな者は、いつどこの世に生まれても、結局は、調節者、忠告者、観測者にとどまるのだろうか。けっして行動者にはなれないのだろうか?
 孫行者の行動を見るにつけ、俺は考えずにはいられない。「燃え盛る火は、みずからの燃えていることを知るまい。自分は燃えているな、などと考えているうちは、まだほんとうに燃えていないのだ。」と。悟空《ごくう》の闊達無碍《かったつむげ》の働きを見ながら俺《おれ》はいつも思う。「自由な行為とは、どうしてもそれをせずにはいられないもの[#「もの」に傍点]が内に熟してきて、おのずと外に現われる行為の謂《いい》だ。」と。ところで、俺はそれを思うだけなのだ。まだ一歩でも悟空についていけないのだ。学ぼう、学ぼうと思いながらも、悟空の雰囲気《ふんいき》の持つ桁違《けたちが》いの大きさに、また、悟空的なるものの肌合《はだあ》いの粗《あら》さに、恐れをなして近づ
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