突きつめていないからだ。だからだめなんだ。
八戒。そんなことはない。これほど一生懸命に、竜になりたい竜になりたいと思いつめているんだぜ。こんなに強く、こんなにひたむき[#「ひたむき」に傍点]に。
悟空。お前にそれができないということが、つまり、お前の気持の統一がまだ成っていないということになるんだ。
八戒。そりゃひどいよ。それは結果論じゃないか。
悟空。なるほどね。結果からだけ見て原因を批判することは、けっして最上のやり方[#「やり方」に傍点]じゃないさ。しかし、この世では、どうやらそれがいちばん実際的に確かな方法のようだぜ。今のお前の場合なんか、明らかにそうだからな。
[#ここで字下げ終わり]
悟空によれば、変化《へんげ》の法とは次のごときものである。すなわち、あるものになりたいという気持が、この上なく純粋に、この上なく強烈であれば、ついにはそのものになれる。なれないのは、まだその気持がそこまで至っていないからだ。法術の修行とは、かくのごとく己《おのれ》の気持を純一|無垢《むく》、かつ強烈なものに統一する法を学ぶに在《あ》る。この修行は、かなりむずかしいものには違いないが、いったんその境に達したのちは、もはや以前のような大努力を必要とせず、ただ心をその形に置くことによって容易に目的を達しうる。これは、他の諸芸におけると同様である。変化《へんげ》の術が人間にできずして狐狸《こり》にできるのは、つまり、人間には関心すべき種々の事柄があまりに多いがゆえに精神統一が至難であるに反し、野獣は心を労すべき多くの瑣事《さじ》を有《も》たず、したがってこの統一が容易だからである、云々《うんぬん》。
悟空《ごくう》は確かに天才だ。これは疑いない。それははじめてこの猿《さる》を見た瞬間にすぐ感じ取られたことである。初め、赭顔《あからがお》・鬚面《ひげづら》のその容貌《ようぼう》を醜いと感じた俺《おれ》も、次の瞬間には、彼の内から溢《あふ》れ出るものに圧倒されて、容貌のことなど、すっかり忘れてしまった。今では、ときにこの猿の容貌を美しい(とは言えぬまでも少なくともりっぱだ)とさえ感じるくらいだ。その面魂《つらだましい》にもその言葉つきにも、悟空が自己に対して抱いている信頼が、生き生きと溢《あふ》れている。この男は嘘《うそ》のつけない男だ。誰に対してよりも、まず自分に対して。この
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