、幻術を能《よ》くするくらいなら真人《しんじん》であろうし、真人なら宇宙の大道を会得《えとく》していて、渠《かれ》の病を癒《いや》すべき智慧《ちえ》をも知っていようと思われたからだ。しかし、悟浄は失望せぬわけにいかなかった。洞《ほら》の奥で巨鼇《きょごう》の背に座った黒卵道人《こくらんどうじん》も、それを取囲む数十の弟子たちも、口にすることといえば、すべて神変不可思議《しんぺんふかしぎ》の法術のことばかり。また、その術を用いて敵を欺《あざむ》こうの、どこそこの宝を手に入れようのという実用的な話ばかり。悟浄の求めるような無用の思索の相手をしてくれるものは誰一人としておらなんだ。結局、ばかにされ哂《わら》いものになった揚句《あげく》、悟浄は三星洞を追出された。
次に悟浄が行ったのは、沙虹隠士《しゃこういんし》のところだった。これは、年を経た蝦《えび》の精で、すでに腰が弓のように曲がり、半ば河底の砂に埋もれて生きておった。悟浄はまた、三《み》月の間、この老隠士に侍して、身の廻《まわ》りの世話を焼きながら、その深奥《しんおう》な哲学に触れることができた。老いたる蝦の精は曲がった腰を悟浄にさすらせ、深刻な顔つきで次のように言うた。
「世はなべて空《むな》しい。この世に何か一つでも善《よ》きことがあるか。もしありとせば、それは、この世の終わりがいずれは来るであろうことだけじゃ。別にむずかしい理窟《りくつ》を考えるまでもない。我々の身の廻りを見るがよい。絶えざる変転、不安、懊悩《おうのう》、恐怖、幻滅、闘争、倦怠《けんたい》。まさに昏々昧々《こんこんまいまい》紛々若々《ふんぷんじゃくじゃく》として帰《き》するところを知らぬ。我々は現在という瞬間の上にだけ立って生きている。しかもその脚下の現在は、ただちに消えて過去となる。次の瞬間もまた次の瞬間もそのとおり。ちょうど崩れやすい砂の斜面に立つ旅人の足もとが一足ごとに崩れ去るようだ。我々はどこに安んじたらよいのだ。停《と》まろうとすれば倒れぬわけにいかぬゆえ、やむを得ず走り下り続けているのが我々の生じゃ。幸福だと? そんなものは空想の概念だけで、けっして、ある現実的な状態をいうものではない。果敢《はか》ない希望が、名前を得ただけのものじゃ。」
悟浄の不安げな面持ちを見て、これを慰めるように隠士《いんし》は付加えた。
「だが、若い者よ。そう懼《おそ》れることはない。浪《なみ》にさらわれる者は溺《おぼ》れるが、浪に乗る者はこれを越えることができる。この有為転変《ういてんぺん》をのり超えて不壊不動《ふえふどう》の境地に到ることもできぬではない。古《いにしえ》の真人《しんじん》は、能《よ》く是非を超え善悪を超え、我を忘れ物を忘れ、不死不生《ふしふしょう》の域に達しておったのじゃ。が、昔から言われておるように、そういう境地が楽しいものだと思うたら、大間違い。苦しみもない代わりには、普通の生きものの有《も》つ楽しみもない。無味、無色。誠《まこと》に味気《あじけ》ないこと蝋《ろう》のごとく砂のごとしじゃ。」
悟浄は控えめに口を挾《はさ》んだ。自分の聞きたいと望むのは、個人の幸福とか、不動心《ふどうしん》の確立とかいうことではなくて、自己、および世界の究極の意味についてである、と。隠士は目脂《めやに》の溜《たま》った眼をしょぼつかせながら答えた。
「自己だと? 世界だと? 自己を外《ほか》にして客観世界など、在ると思うのか。世界とはな、自己が時間と空間との間に投射した幻《まぼろし》じゃ。自己が死ねば世界は消滅しますわい。自己が死んでも世界が残るなどとは、俗も俗、はなはだしい謬見《びゅうけん》じゃ。世界が消えても、正体の判《わか》らぬ・この不思議な自己というやつこそ、依然として続くじゃろうよ。」
悟浄が仕えてからちょうど九十日めの朝、数日間続いた猛烈な腹痛と下痢《げり》ののちに、この老|隠者《いんじゃ》は、ついに斃《たお》れた。かかる醜い下痢と苦しい腹痛とを自分に与えるような客観世界を、自分の死によって抹殺《まっさつ》できることを喜びながら……。
悟浄は懇《ねんご》ろにあとをとぶらい、涙とともに、また、新しい旅に上った。
噂《うわさ》によれば、坐忘《ざぼう》先生は常に坐禅《ざぜん》を組んだまま眠り続け、五十日に一度目を覚《さ》まされるだけだという。そして、睡眠中の夢の世界を現実と信じ、たまに目覚めているときは、それを夢と思っておられるそうな。悟浄がこの先生をはるばる尋ね来たとき、やはり先生は睡《ねむ》っておられた。なにしろ流沙河《りゅうさが》で最も深い谷底で、上からの光もほとんど射《さ》して来ない有様ゆえ、悟浄も眼の慣れるまでは見定めにくかったが、やがて、薄暗い底の台の上に結跏趺坐《けっかふざ》したまま睡っている僧形《そうぎょう》がぼんやり目前に浮かび上がってきた。外からの音も聞こえず、魚類もまれにしか来ない所で、悟浄もしかたなしに、坐忘先生の前に坐《すわ》って眼を瞑《つぶ》ってみたら、何かジーンと耳が遠くなりそうな感じだった。
悟浄が来てから四日めに先生は眼を開いた。すぐ目の前で悟浄があわてて立上がり、礼拝《らいはい》をするのを、見るでもなく見ぬでもなく、ただ二、三度|瞬《まばた》きをした。しばらく無言の対坐《たいざ》を続けたのち悟浄は恐る恐る口をきいた。「先生。さっそくでぶしつけでございますが、一つお伺いいたします。いったい『我』とはなんでございましょうか?」「咄《とつ》! 秦時《しんじ》の※[#「車+度」、139−16]轢鑚《たくらくさん》!」という烈しい声とともに、悟浄の頭はたちまち一棒を喰《くら》った。渠《かれ》はよろめいたが、また座に直り、しばらくして、今度は十分に警戒しながら、先刻の問いを繰返した。今度は棒が下《お》りて来なかった。厚い唇《くちびる》を開き、顔も身体もどこも絶対に動かさずに、坐忘先生が、夢の中でのような言葉で答えた。「長く食を得ぬときに空腹を覚えるものが※[#「人べん+爾」、第3水準1−14−45]《おまえ》じゃ。冬になって寒さを感ずるものが※[#「人べん+爾」、第3水準1−14−45]じゃ。」さて、それで厚い唇《くちびる》を閉じ、しばらく悟浄《ごじょう》のほうを見ていたが、やがて眼を閉じた。そうして、五十日間それを開かなかった。悟浄は辛抱強《しんぼうづよ》く待った。五十日めにふたたび眼を覚ました坐忘先生は前に坐《すわ》っている悟浄を見て言った。「まだいたのか?」悟浄は謹《つつ》しんで五十日待った旨を答えた。「五十日?」と先生は、例の夢を見るようなトロリとした眼を悟浄に注いだが、じっとそのままひと時[#「ひと時」に傍点]ほど黙っていた。やがて重い唇が開かれた。
「時の長さを計る尺度が、それを感じる者の実際の感じ以外にないことを知らぬ者は愚かじゃ。人間の世界には、時の長さを計る器械ができたそうじゃが、のちのち大きな誤解の種を蒔《ま》くことじゃろう。大椿《たいちん》の寿《じゅ》も、朝菌《ちょうきん》の夭《よう》も、長さに変わりはないのじゃ。時とはな、我々の頭の中の一つの装置《しかけ》じゃわい」
そう言終わると、先生はまた眼を閉じた。五十日後でなければ、それがふたたび開かれることがないであろうことを知っていた悟浄は、睡れる先生に向かって恭々《うやうや》しく頭を下げてから、立去った。
「恐れよ。おののけ。しかして、神を信ぜよ。」
と、流沙河《りゅうさが》の最も繁華な四つ辻《つじ》に立って、一人の若者が叫んでいた。
「我々の短い生涯《しょうがい》が、その前とあととに続く無限の大永劫《だいえいごう》の中に没入していることを思え。我々の住む狭い空間が、我々の知らぬ・また我々を知らぬ・無限の大広袤《だいこうぼう》の中に投込まれていることを思え。誰か、みずからの姿の微小さに、おののかずにいられるか。我々はみんな鉄鎖に繋《つな》がれた死刑囚だ。毎瞬間ごとにその中の幾人かずつが我々の面前で殺されていく。我々はなんの希望もなく、順番を待っているだけだ。時は迫っているぞ。その短い間を、自己|欺瞞《ぎまん》と酩酊《めいてい》とに過ごそうとするのか? 呪《のろ》われた卑怯者《ひきょうもの》め! その間を汝《なんじ》の惨《みじ》めな理性を恃《たの》んで自惚《うぬぼ》れ返っているつもりか? 傲慢《ごうまん》な身の程《ほど》知らずめ! 噴嚏《くしゃみ》一つ、汝の貧しい理性と意志とをもってしては、左右できぬではないか。」
白皙《はくせき》の青年は頬《ほお》を紅潮させ、声を嗄《か》らして叱咤《しった》した。その女性的な高貴な風姿のどこに、あのような激しさが潜んでいるのか。悟浄は驚きながら、その燃えるような美しい瞳《ひとみ》に見入った。渠《かれ》は青年の言葉から火のような聖《きよ》い矢が自分の魂に向かって放たれるのを感じた。
「我々の為《な》しうるのは、ただ神を愛し己《おのれ》を憎むことだけだ。部分は、みずからを、独立した本体だと自惚《うぬぼ》れてはならぬ。あくまで、全体の意志をもって己の意志とし、全体のためにのみ、自己を生きよ。神に合するものは一つの霊となるのだ」
確かにこれは聖《きよ》く優《すぐ》れた魂の声だ、と悟浄は思い、しかし、それにもかかわらず、自分の今|饑《う》えているものが、このような神の声でないことをも、また、感ぜずにはいられなかった。訓言《おしえ》は薬のようなもので、※[#「やまいだれ+亥」、第3水準1−88−46]瘧《おこり》を病む者の前に※[#「やまいだれ+重」、第4水準2−81−58]腫《はれもの》の薬をすすめられてもしかたがない、と、そのようなことも思うた。
その四つ辻《つじ》から程遠からぬ路傍《ろぼう》で、悟浄は醜い乞食《こじき》を見た。恐ろしい佝僂《せむし》で、高く盛上がった背骨に吊《つ》られて五臓《ごぞう》はすべて上に昇ってしまい、頭の頂は肩よりずっと低く落込んで、頤《おとがい》は臍《へそ》を隠すばかり。おまけに肩から背中にかけて一面に赤く爛《ただ》れた腫物《はれもの》が崩れている有様に、悟浄は思わず足を停《と》めて溜息《ためいき》を洩《も》らした。すると、蹲《うずくま》っているその乞食《こじき》は、頸《くび》が自由にならぬままに、赤く濁った眼玉《めだま》をじろり[#「じろり」に傍点]と上向け、一本しかない長い前歯を見せてニヤリとした。それから、上に吊上《つりあ》がった腕をブラブラさせ、悟浄の足もとまでよろめいて来ると、渠《かれ》を見上げて言った。
「僭越《せんえつ》じゃな、わし[#「わし」に傍点]を憐《あわ》れみなさるとは。若いかたよ。わし[#「わし」に傍点]を可哀想《かわいそう》なやつと思うのかな。どうやら、お前さんのほうがよほど可哀想に思えてならぬが。このような形にしたからとて、造物主をわし[#「わし」に傍点]が怨んどるとでも思っていなさるのじゃろう。どうしてどうして。逆に造物主を讃《ほ》めとるくらいですわい、このような珍しい形にしてくれたと思うてな。これからも、どんなおもしろい恰好《かっこう》になるやら、思えば楽しみのようでもある。わし[#「わし」に傍点]の左|臂《ひじ》が鶏になったら、時を告げさせようし、右臂が弾《はじ》き弓になったら、それで※[#「号+鳥」、第3水準1−94−57]《ふくろう》でもとって炙《あぶ》り肉をこしらえようし、わし[#「わし」に傍点]の尻《しり》が車輪になり、魂が馬にでもなれば、こりゃこのうえなしの乗物で、重宝《ちょうほう》じゃろう。どうじゃ。驚いたかな。わし[#「わし」に傍点]の名はな、子輿《しよ》というてな、子祀《しし》、子犁《しれい》、子来《しらい》という三人の莫逆《ばくぎゃく》の友がありますじゃ。みんな女※[#「人べん+禹」、142−16]《じょう》氏の弟子での、ものの形を超えて不生不死《ふしょうふし》の境《きょう》に入ったれば、水にも濡《ぬ》れず火にも焼《や》けず、寝て夢見ず、覚めて憂《うれ》いなきも
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