ろうことは推察に難《かた》くない。私はまだはっきりと覚えている。ある冬の朝、南大門駅の乗換の所で、偶然その少女に(全く先方もどうかしていて、ひょいとそうする気になったらしいのだが)正面から挨拶され、面喰ってそれに応じた彼の、寒さで鼻の先を赤くした顔つきを。それから又同じ頃やはり電車の中で、私達二人とその少女とが乗合せた時のことを。その時、私達が少女の腰掛けている前に立っている中《うち》に、脇の一人が席を立ったので、彼女が横へ寄って趙の為に(しかし、それは又同時に私のためとも取れないことはないのだが)席をあけてくれたのだが、その時の趙が、何という困ったような、又、嬉しそうな顔付をしたことか。…………私が何故こんなくだらない[#「くだらない」に傍点]事をはっきり憶《おぼ》えているかといえば――いや、全く、こんなことはどうでもいいことだが――それは勿論、私自身も亦《また》、心ひそかに其の少女に切ない気持を抱いていたからだった。が、やがて、その彼の、いや私達の哀《かな》しい恋情は、月日が経って、私達の顔に次第に面皰《にきび》が殖《ふ》えてくるに従って、何処かへ消えて行って了った。私達の前に次か
前へ
次へ
全54ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング