匹の虎が、どうしても私には本物の虎のような気がしなくて、脅《おびやか》された当の巡査自身のように、サアベルを提《さ》げ長靴でもはき、ぴんと張った八字|髭《ひげ》でも撫上げながら、「オイ、コラ」とか何とか言いそうな、稚気満々たるお伽話《とぎばなし》の国の虎のように思えてならなかったのだ。

       二

 さて、虎狩の話の前に、一人の友達のことを話して置かねばならぬ。その友達の名は趙大煥といった。名前で分るとおり、彼は半島人だった。彼の母親は内地人だと皆が云っていた。私はそれを彼の口から親しく聞いたような気もするが、或いは私自身が自分で勝手にそう考えて、きめこんでいただけかも知れぬ。あれだけ親しく付合っていながら、ついぞ私は彼のお母さんを見たことがなかった。兎《と》に角《かく》、彼は日本語が非常に巧《たく》みだった。それに、よく小説などを読んでいたので、植民地あたりの日本の少年達が聞いたこともないような江戸前の言葉さえ知っていた位だ。で、一見して彼を半島人と見破ることは誰にも出来なかった。趙と私とは小学校の五年の時から友達だった。その五年の二学期に私が内地から龍山の小学校へ転校して
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