口をきかなかったように憶えている。…………

       五

 彼と私との交際の間には、もっと重要なことが沢山あったに相違ないのだが、それでも私はこうした小さな出来事ばかり馬鹿にはっきりと憶えていて、他《ほか》の事は大抵忘れて了《しま》っている。人間の記憶とは大体そういう風に出来ているものらしい。で、この他に私のよく憶えていることといえば、――そう、あの三年生の時の、冬の演習の夜のことだ。
 それは、たしか十一月も末の、風の冷たい日だった。その日、三年以上の生徒は漢江南岸の永登浦《えいとうほ》の近処で発火演習を行《おこな》った。斥候《せっこう》に出た時、小高い丘の疎林《そりん》の間から下を眺めると、其処《そこ》には白い砂原が遠く連なり、その中程あたりを鈍い刃物色をした冬の川がさむざむと流れている。そしてその遥か上の空には、何時《いつ》も見慣れた北漢山のゴツゴツした山骨《さんこつ》が青紫色に空を劃っていたりする。そうした冬枯の景色の間を、背嚢《はいのう》の革や銃の油の匂、又は煙硝《えんしょう》の匂などを嗅ぎながら、私達は一日中駈けずり廻った。
 その夜は漢江の岸の路梁津《ろりょうしん
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