だ現在の彼一個の場合についての感慨ばかりではないのではなかろうか、と其の時、私はそう思ったのだ。勿論、今から考えて見ると、これは私の思いすごしであったかも知れない。早熟とはいえ、たかが中学三年生の言葉に、そんな意味まで考えようとしたのは、どうやら彼を買被《かいかぶ》りすぎていたようにも思える。が、常々自分の生れのことなどを気にしないように見せながら、実は非常に気にしていた趙のことではあり、又、上級生に苛《いじ》められる理由の一部をもその点に自《みずか》ら帰していたらしい彼を、よく知っていた私であったから、私がその時そんな風に考えたのも、あながち無理ではなかったのだ。そう考えて、さて、自分と並んだ趙のしおれた姿を見ると、そうでなくても慰めの言葉に窮していた私は、更に何と言葉をかけていいやら解らなくなり、ただ黙って水面を眺めるばかりだった。が、それでも私は何かしら心の中で嬉しかった。あの皮肉屋の、気取屋の趙が、いつもの外出《よそ》行きをすっかり脱いで――前にも言ったように、これ迄にも時として、そういう事もないではなかったが、今夜のような正直な激しさで私を驚かせたことはなかった。――裸の、弱虫の、そして内地人ではない、半島人の、彼を見せてくれたことが、私に満足を与えたのだった。私達はそうして暫く寒い河原に立ったまま、月に照らされた、対岸の龍山から毒村県《とくそんけん》や清凉里《せいりょうり》へかけての白々とした夜景を眺めていた。…………
 此の露営の夜の出来事のほかには、彼について思い出すことといっては別に無い。というのは、それから間もなく(まだ私達が四年にならない前に)彼は突然、全く突然、私にさえ一言の予告も与えないで、学校から姿を消して了ったからだ。いうまでもなく、私はすぐに彼の家へたずねて見た。彼の家族は勿論そこにいた。ただ彼だけがいないのだ。支那《しな》の方へ一寸《ちょっと》行ったから、という彼の父親の不完全な日本語の返事の外には、何の手掛りも得られなかった。私は全く腹を立てた。前に何とか一言《ひとこと》ぐらい挨拶があってもいい筈なのだ。私は、彼の失踪の原因を色々と考えて見ようとしたが、無駄だった。あの露営の晩の出来事が直接の動機となったのだろうか。あのことだけで、学校を廃《や》めるほどの理由になろうとも思えなかったが、やはり幾分は関係があるような気もした。そう考えると、いよいよ、例の、彼の言った「強い、弱い」云々《うんぬん》の言葉が意味のあるものに思われてくるのだった。
 やがて、彼に関する色々な噂《うわさ》が伝わって来た。彼がある種の運動の一味に加わって活躍しているという噂を一しきり私は聞いた。次には、彼が上海《しゃんはい》に行って身を持崩しているというような話も――これはやや後になってではあるが――聞いた。その何《いず》れもがあり得ることに思えたし、又同時に、両方とも根の無いことのように考えられもした。斯《こ》うして、中学を終えると直ぐに東京へ出て了った私は、其の後、杳《よう》として彼の消息を聞かないのだ。

       六

 虎狩の話をするなどと称しながら、どうやら少し先走りしすぎたようだ。さて、ここらで、愈々《いよいよ》本題に戻らねばならぬ。で、この虎狩の話というのは、前にも述べたように、趙が行方をくらます二年程前の正月、つまり私と趙とが、例の、目の切れの長く美しい小学校の時の副級長を忘れるともなく次第に忘れて行こうとしていた頃のことだ。
 ある日学校が終って、いつもの様に趙と二人で電車の停留所まで来ると、彼は私に、いい話があるから次の停留所まで歩こうと言った。そうして、その時、歩きながら、私に虎狩に行きたくないかと言い出した。今度の土曜日に彼の父親が虎狩に行くのだが、その折、彼も連れて行って貰うことになっているという。で、私なら、かねて名前も言ってあるので、彼の父親も許すに違いないから、一緒に行こうじゃないか、というのだ。私は、虎狩などということは今迄まるで考えて見たことがなかっただけに、その時|暫《しばら》く、驚いたような、彼の言葉が真実であるかどうかを疑うような眼付で彼を見返したものらしい。まったく、虎などという代物が、動物園か子供雑誌の挿絵以外に、自分の間近に、現実に――しかも自分が承知しさえすれば、ここ三四日の中に――現れてこようなどとは、それこそ夢にも考えられなかったからだ。で、私は先ず、彼が私をかつごうとしているのではないことを、再三、――彼がやや機嫌を悪くしたくらい――確かめてから、さて、其《そ》の場所や、同勢や費用などを尋ねたのだった。そうして、その揚句《あげく》、彼の父親が承知したら、――というよりも、是非頼むから、無理にも連れて行って貰いたいと、私が言出したのは言うまでもない。趙の父親は元
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