かけてのことだが、彼が一人の少女を慕っていたのを私は知っている。小学校の私達の組は男女混合組で、その少女は副級長をしていた。(級長は男の方から選ぶのだ。)背の高い、色はあまり白くはないが、髪の豊かな、眼のきれの長く美しい娘だった。組の誰彼が、少女|倶楽部《クラブ》か何かの口絵の、華宵《かしょう》とかいう挿絵画家の絵を、よく此《こ》の少女と比較しているのを聞いたことがあった。趙は小学校の頃から其《そ》の少女が好きだったらしいのだが、やがてその少女もやはり龍山から電車で京城の女学校に通うこととなり、往き帰りの電車の中でちょいちょい[#「ちょいちょい」に傍点]顔を合せるようになってから、更に気持が昂《こう》じてきたのだった。ある時、趙はまじめになって私にその事を洩らしたことがあった。はじめは自分もそれ程ではなかったのだが、年上の友人の一人がその少女の美しさを讃《ほ》めるのを聞いてから、急に堪《たま》らなく其の少女が貴く美しいものに思えてきたと、その時彼はそんなことを云った。口には出さなかったけれども、神経質な彼が此の事についても又、事新しく、半島人とか内地人とかいう問題にくよくよ心を悩ましたろうことは推察に難《かた》くない。私はまだはっきりと覚えている。ある冬の朝、南大門駅の乗換の所で、偶然その少女に(全く先方もどうかしていて、ひょいとそうする気になったらしいのだが)正面から挨拶され、面喰ってそれに応じた彼の、寒さで鼻の先を赤くした顔つきを。それから又同じ頃やはり電車の中で、私達二人とその少女とが乗合せた時のことを。その時、私達が少女の腰掛けている前に立っている中《うち》に、脇の一人が席を立ったので、彼女が横へ寄って趙の為に(しかし、それは又同時に私のためとも取れないことはないのだが)席をあけてくれたのだが、その時の趙が、何という困ったような、又、嬉しそうな顔付をしたことか。…………私が何故こんなくだらない[#「くだらない」に傍点]事をはっきり憶《おぼ》えているかといえば――いや、全く、こんなことはどうでもいいことだが――それは勿論、私自身も亦《また》、心ひそかに其の少女に切ない気持を抱いていたからだった。が、やがて、その彼の、いや私達の哀《かな》しい恋情は、月日が経って、私達の顔に次第に面皰《にきび》が殖《ふ》えてくるに従って、何処かへ消えて行って了った。私達の前に次か
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