羹《ようかん》色の縁の、ペロリと垂れた中折を阿弥陀《あみだ》にかぶった下に、大きなロイド眼鏡――それも片方の弦《つる》が無くて、紐《ひも》がその代用をしている――を光らせ、汚点《しみ》だらけの詰襟服はボタンが二つも取れている。薄汚ない長い顔には、白く乾いた脣のまわりに疎《まば》らな無精髭《ぶしょうひげ》がしょぼしょぼ[#「しょぼしょぼ」に傍点]生えて、それが間の抜けた表情を与えてはいるが、しかし、又、其の、間の迫った眉のあたりには、何かしら油断の出来ない感じをさせるものがあるようだ。いって見れば、田舎者の顔と、掏摸《すり》の顔とを一緒にしたような顔付だ。歩いて来た私は、五六間も先《さき》から、すでに、群集の中に、この長すぎる身体をもてあましているような異様な風体の男を発見して、それに眼を注いでいた。すると、向うもどうやら私の方を見ていたらしかったが、私がその一間ほど手前に来た時、その男の、心持しかめていた眉の間から、何か一寸《ちょっと》した表情の和《やわ》らぎといった風のものがあらわれた。そして、その、目に見えない位の微《かす》かな和らぎが忽ち顔中に拡がったと思うと、急に彼の眼が(勿論、微笑一つしないのだが)私に向って、あたかも旧知を認める時のように、うなずいて見せたのだ。私はびっくり[#「びっくり」に傍点]した。そうして、前後を見廻して、其のウインクが私に向って発せられたものであることを確かめると、私は私の記憶の隈々を大急ぎで探しはじめた。その間も、一方、眼の方は相手からそらさずに怪訝《けげん》そうな凝視を続けていたのだが、その中に、私の心のすみっこ[#「すみっこ」に傍点]に、ハッキリとは解らないが何か非常に長い間忘れていたようなあるもの[#「あるもの」に傍点]が見付かったような気がした。そして、その会体《えたい》の知れない或る感じが見る見る拡がって行った時、私の眼は既に、彼の眼差に答えるための会釈《えしゃく》をしていたのだ。その時にはもう私には、此の男が自分の旧知の一人であることは確かだった。ただそれが誰であったかが疑問として残ったに過ぎない。
 相手は此方《こちら》の会釈を見ると、此方も向うを思い出したものと思ったらしく、私の方へ歩み寄って来た。が、別に話をするでもなく、笑顔を見せるでもなく、黙って私と並んで、自分の今来た道を逆に歩き出した。私も亦《また》黙っ
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