れども虎は登れないこと、私達が行こうとしている所は、虎ばかりでなく豹も出るかも知れないということ、その他、銃はレミントンを使うのだとか、ウィンチェスタアにするのだとか、あたかも自分がとっくの昔から知ってでもいたかのような調子で、種々の予備智識を与えるのだった。私もふだんなら「何だ、又聞《またぎき》のくせに」と一矢酬いる所なのだが、何しろ其の冒険の予想で夢中に喜ばされていた際なので、嬉しがって彼の知ったかぶりを傾聴した。
 金曜日の放課後、私は一人で(これは趙にも内緒で)昌慶苑に行った。昌慶苑というのは昔の李王の御苑で、今は動物園になっている所だ。私は虎の檻《おり》の前に行って、佇《たたず》んだ。スティイムの通っている檻の中で私から一米と隔たらない距離に、虎は前肢を行儀よく揃えて横たわり、眼を細くしていた。眠っているのではないらしいが、側に近づいた私の方には一顧だに呉《く》れようとしない。私は出来るだけ彼に近づいて、仔細に観察した。確かに仔牛ぐらいはありそうな盛上った背中の肉付。背中は濃く、腹部に向うに従って、うすくなっている、その黄色の地色を、鮮かに染抜いて流れる黒の縞。目の上や、耳の尖端に生えている白毛。身体にふさわしい大きさで頑丈に作られたその頭と顎。それにはライオンに見られるような装飾風な馬鹿馬鹿しい大きさはなく、如何にも実用向きな獰猛《どうもう》さが感じられた。このような獣が、やがて山の中で私の眼の前に躍り出してくるのだと思うと、自然に胸がどきどき[#「どきどき」に傍点]して来るのを禁ずることが出来なかった。暫く観察していた私は今まで気がつかないでいた事を発見した。それは、虎の頬と顎の下が白いということだ。それから又、彼の鼻の頭が真黒で、猫のそれのように如何にも柔かそうで、一寸手を伸ばしていじって見たいように出来ていることも私を喜ばせた。私はそれらの発見に満足して立去ろうとした。が、私が此処《ここ》に佇んでいた小一時間の間、この獣は私に一瞥《いちべつ》さえ与えなかったのだ。私は侮辱を受けたような気がして、最後に、獣の唸《うな》るような声を立てて、彼の注意を惹こうと試みた。併し無駄だった。彼は、その細く閉じた眼をあけようとさえしなかった。

 いよいよ土曜日になった。四時間目の数学が終るのを待ちかねて、私は急いで家に帰った。そうして昼飯をすますと、いつもより二
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