厚い毛皮の陰に北風を避け、獸糞や枯木を燃した石の爐の傍で馬乳酒を啜りながら、彼等は冬を越す。岸の蘆が芽ぐみ始めると、彼等は再び外へ出て働き出した。
 シャクも野に出たが、何か眼の光も鈍く、呆《ぼ》けたやうに見える。人々は、彼が最早物語をしなくなつたのに氣が付いた。強ひて話を求めても、以前したことのある話の蒸し返ししか出來ない。いや、それさへ滿足には話せない。言葉つきもすつかり生彩を失つて了つた。人々は言つた。シャクの憑きものが落ちたと。多くの物語をシャクに語らせた憑きものが、最早、明らかに落ちたのである。
 憑きものは落ちたが、以前の勤勉の習慣は戻つて來なかつた。働きもせず、さりとて、物語をするでもなく、シャクは毎日ぼんやり湖を眺めて暮らした。其の樣子を見る度に、以前の物語の聽手達は、この莫迦面の怠け者に、貴い自分達の冬籠りの食物を頒けてやつたことを腹立たしく思出した。シャクに含む所のある長老達は北叟笑《ほくそゑ》んだ。部落にとつて有害無用と一同から認められた者は、協議の上で之を處分することが出來るのである。
 硬玉の頸飾を著《つ》けた鬚深い有力者達が、より/\相談をした。身内《みうち》の無いシャクの爲に辯じようとする者は一人も無い。
 丁度雷雨季がやつて來た。彼等は雷鳴を最も忌み恐れる。それは、天なる一眼の巨人の怒れる呪ひの聲である。一度此の聲が轟くと、彼等は一切の仕事を止めて謹愼し、惡しき氣を祓わねばならぬ。奸譎な老人は、占卜者を牛角杯二箇で以て買收し、不吉なシャクの存在と、最近の頻繁な雷鳴とを結び付けることに成功した。人々は次の樣に決めた。某日《ぼうじつ》、太陽が湖心の眞上を過ぎてから西岸の山毛欅《ぶな》の大樹の梢にかかる迄の間に、三度以上雷鳴が轟いたなら、シャクは、翌日、祖先傳來のしきたり[#「しきたり」に傍点]に從つて處分されるであらう。
 其の日の午後、或者は四度雷鳴を聞いた。或者は五度聞いたと言つた。
 次の日の夕方、湖畔の焚火を圍んで盛んな饗宴が開かれた。大鍋の中では、羊や馬の肉に交つて、哀れなシャクの肉もふつ/\[#「ふつ/\」に傍点]煮えてゐた。食物の餘り豐かでない此の地方の住民にとつて、病氣で斃れた者の外、凡ての新しい屍體は當然食用に供せられるのである。シャクの最も熱心な聽手だつた縮れつ毛の青年が、焚火に顏を火照らせながらシャクの肩の肉を頬張つた。例の長老が、憎い仇の大腿骨を右手に、骨に付いた肉を旨さうにしやぶつた。しやぶり終つてから骨を遠くへ抛《はふ》ると、水音がし、骨は湖に沈んで行つた。

 ホメロスと呼ばれた盲人《めくら》のマエオニデェスが、あの美しい歌ども[#「ども」に傍点]を唱ひ出すよりずつと以前に、斯うして一人の詩人が喰はれて了つたことを、誰も知らない。



底本:「中島敦全集 第一巻」筑摩書房
   1976(昭和51)年3月15日発行
入力:圭
校正:木本敦子
1999年9月3日公開
2004年2月4日公開
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