の代となる頃から、叔孫の健康が衰え始めた。丘蕕《きゅうゆう》という所へ狩りに行った帰りに悪寒を覚えて寝付いてからは、ようやく足腰が立たなくなって来る。病中の身の廻りの世話から、病床よりの命令の伝達に至るまで、一切は豎牛一人に任せられることになった。豎牛の孟丙らに対する態度は、しかし、いよいよ遜《へりくだ》ってくる一方である。
 叔孫が寝付く以前に、長子の孟丙のために鐘を鋳させることに決め、その時に言った。お前はまだこの国の諸大夫と近附になっていないから、この鐘が出来上ったら、その祝を兼ねて諸大夫を饗応するが宜《よ》かろうと。明らかに孟丙を相続者と決めての話である。叔孫が病に伏してから、ようやく鐘が出来上った。孟丙は、かねて話のあった宴会の日取の都合を父に聞こうとして、豎牛にその旨を通じてもらった。特別の事情が無い限り、豎牛の外は誰一人病室に出入出来なかったのである。豎牛は、孟丙の頼を受けて病室に入ったが、叔孫には何も取次がない。すぐ外へ出て来て孟丙に向かい、主君の言葉として出鱈目《でたらめ》な日にち[#「日にち」に傍点]を指定する。指定された日に孟丙は賓客を招き盛んに饗応して、その座で始めて新しい鐘を打った。病室でその音を聞いた叔孫が怪しんで、あれは何だと聞く。孟丙の家で鐘の完成を祝う宴が催され多数の客が来ている旨を、豎牛が答える。俺の許も得ないで勝手に相続人|面《づら》をするとは何事だ、と病人が顔色を変える。それに、客の中には斉にいる孟丙殿の母上の関係の方々も遥々見えているようです、と豎牛が附加える。不義を働いたかつての妻の話を持出すといつも叔孫の機嫌が見る見る悪くなることを、良く承知しているのだ。病人は怒って立上がろうとするが、豎牛に抱きとめられる。身体に障ってはいけないというのである。俺がこの病でてっきり[#「てっきり」に傍点]死ぬものと決めて掛かって、もう勝手な真似を始めたのだなと歯咬《はが》みをしながら、叔孫は豎牛に命ずる。構わぬ。引捕らえて牢《ろう》に入れろ。抵抗するようなら打殺しても宜《よ》い。
 宴が終り、若い叔孫家の後嗣は快く諸賓客を送り出したが、翌朝は既に屍体《したい》となって家の裏藪《うらやぶ》に棄てられていた。

 孟丙の弟仲壬は昭公の近侍《きんじ》某と親しくしていたが、一日友を公宮に訪ねた時、たまたま公の目に留《とま》った。二言《ふたこと》三言《みこと》、その下問に答えている中に、気に入られたと見え、帰りには親しく玉環《ぎょっかん》を賜わった。大人しい青年で、親にも告げずに身に佩《お》びては悪かろうと、豎牛を通じて病父にその名誉の事情を告げ玉環を見せようとした。牛は玉環を受取って内に入ったが、叔孫には示さない。仲壬が来たということさえ話さぬ。再び外に出て来て言った。父上には大変御喜びですぐにも身に着けるようにとのことでした、と。仲壬はそこで始めてそれを身に佩びた。数日後、豎牛が叔孫に勧める。既に孟丙が亡い以上、仲壬を後嗣に立てることは決まっている故、今から主君昭公に御目通りさせては如何。叔孫がいう。いや、まだそれと決めた訳ではないから、今からそんな必要はない。しかし、と牛が言葉を返す。父上の思召《おぼしめし》はどうあろうと、息子の方では勝手にそう決め込んで、もはや直接君公に御目通りしていますよ。そんな莫迦《ばか》な事があるはずは無いという叔孫に、それでも近頃仲壬が君公から拝領したという玉環を佩びていることは確かですと牛が請け合う。早速仲壬が呼ばれる。果たして玉環を佩びている。公からの戴きものだという。父は利かぬ身体を床の上に起こして怒った。息子の弁解は何一つ聞かれず、すぐにその場を退いて謹慎せよという。
 その夜、仲壬はひそかに斉に奔《はし》った。

 病が次第に篤《あつ》くなり、焦眉《しょうび》の問題として真剣に後嗣のことを考えねばならなくなった時、叔孫豹はやはり仲壬を呼ぼうと思った。豎牛にそれを命ずる。命を受けて出ては行ったが、もちろん斉にいる仲壬に使を出しはしない。さっそく仲壬の許へ使を遣わしたが非道なる父の所へは二度と戻らぬという返辞だったと復命する。この頃になってようやく叔孫にも、この近臣に対する疑いが湧《わ》いて来た。汝《なんじ》の言葉は真実か? と吃《きつ》として聞き返したのはそのためである。どうして私が偽《いつわり》など申しましょう、と答える豎牛の唇の端が、その時|嘲《あざけ》るように歪《ゆが》んだのを病人は見た。こんな事はこの男が邸に来てから全く始めてであった。カッとして病人は起上ろうとしたが、力が無い。すぐ打倒れる。その姿を、上から、黒い牛のような顔が、今度こそ明瞭な侮蔑《ぶべつ》を浮かべて、冷然と見下す。儕輩や部下にしか見せなかったあの残忍な顔である。家人や他の近臣を呼ぼうにも、
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