ヲ」とH氏がマリヤンの方を見て笑いながら言った。マリヤンはちょっとてれた[#「てれた」に傍点]ように厚い脣《くちびる》を綻《ほころ》ばせたが、別にH氏の言葉を打消しもしない。
あとでH氏に聞くと、東京の何処とかの女学校に二、三年(卒業はしなかったらしいが)いたことがあるのだそうだ。「そうでなくても、英語だけはおやじ[#「おやじ」に傍点]に教わっていたから、出来るんですよ」とH氏は附加えた。「おやじ[#「おやじ」に傍点]といっても、養父ですがね。そら、あの、ウィリアム・ギボンがあれの養父になっているのですよ。」ギボンといわれても、私にはあの浩瀚《こうかん》なローマ衰亡史の著者しか思い当らないのだが、よく聞くと、パラオでは相当に名の聞えたインテリ混血児(英人と土民との)で、独領時代に民俗学者クレエマア教授が調査に来ていた間も、ずっと通訳として使われていた男だという。尤《もっと》も、独逸《ドイツ》語ができた訳ではなく、クレエマア氏との間も英語で用を足していたのだそうだが、そういう男の養女であって見れば、英語が出来るのも当然である。
私の変屈な性質のせい[#「せい」に傍点]か、パラオの役所の同僚とはまるで打解けた交際が出来ず、私の友人といっていいのはH氏の外に一人もいなかった。H氏の部屋に頻繁に出入するにつれ、自然、私はマリヤンとも親しくならざるを得ない。
マリヤンはH氏のことをおじさん[#「おじさん」に傍点]と呼ぶ。彼女がまだほんの小さい時から知っているからだ。マリヤンは時々おじさん[#「おじさん」に傍点]の所へうち[#「うち」に傍点]からパラオ料理を作って来ては御馳走する。その都度、私がお相伴に預かるのである。ビンルンムと称するタピオカ芋のちまき[#「ちまき」に傍点]や、ティティンムルという甘い菓子などを始めて覚えたのも、マリヤンのお蔭であった。
或る時H氏と二人で道を通り掛かりにちょっとマリヤンの家に寄ったことがある。うち[#「うち」に傍点]は他の凡ての島民の家と同じく、丸竹を並べた床《ゆか》が大部分で、一部だけ板の間になっている。遠慮無しに上って行くと、その板の間に小さなテーブルがあって、本が載っていた。取上げて見ると、一冊は厨川白村《くりやがわはくそん》の『英詩選釈』で、もう一つは岩波文庫の『ロティの結婚』であった。天井に吊るされた棚には椰子《ヤシ》バスケットが沢山並び、室内に張られた紐《ひも》には簡単着の類が乱雑に掛けられ(島民は衣類をしまわないで、ありったけだらしなく[#「だらしなく」に傍点]干物《ほしもの》のように引掛けておく)竹の床の下に※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]どもの鳴声が聞える。室の隅には、マリヤンの親類でもあろう、一人の女がしどけなく寝ころんでいて、私どもがはいって行くと、うさん臭そうな[#「うさん臭そうな」に傍点]目を此方に向けたが、またそのまま向うへ寝返りを打ってしまった。そういう雰囲気の中で、厨川白村やピエル・ロティを見付けた時は、実際、何だかへんな気がした。少々いたましい気がしたといってもいい位である。尤も、それは、その書物に対して、いたましく感じたのか、それともマリヤンに対していたいたしく感じたのか、其処まではハッキリ判らないのだが。
その『ロティの結婚』については、マリヤンは不満の意を洩らしていた。現実の南洋は決してこんなものではないという不満である。「昔の、それもポリネシヤのことだから、よく分らないけれども、それでも、まさか、こんなことは無いでしょう」という。
部屋の隅を見ると、蜜柑箱のようなものの中に、まだ色々な書物や雑誌の類が詰め込んであるようだった。その一番上に載っていた一冊は、たしか(彼女がかつて学んだ東京の)女学校の古い校友会雑誌らしく思われた。
コロールの街には岩波文庫を扱っている店が一軒も無い。或る時、内地人の集まりの場所で、たまたま私が山本有三氏の名を口にしたところ、それはどういう人ですと一斉に尋ねられた。私は別に万人が文学書を読まねばならぬと思っている次第ではないが、とにかく、この町はこれほどに書物とは縁の遠い所である。恐らく、マリヤンは、内地人をも含めてコロール第一の読書家かも知れない。
マリヤンには五歳《いつつ》になる女の児がある。夫は、今は無い。H氏の話によると、マリヤンが追出したのだそうである。それも、彼が度外《どはず》れた嫉妬家《やきもちや》であるとの理由で。こういうとマリヤンが如何にも気の荒い女のようだが、――事実また、どう考えても気の弱い方ではないが――これには、彼女の家柄から来る・島民としての地位の高さも、考えねばならぬのだ。彼女の養父たる混血児のことは前にちょっと述べたが、パラオは母系制だから、これはマリヤンの家格に何の関係も
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