Aといった誰かの言葉を思い出した。ものが亡びる時は、こんなものなのかと思った。科学者たちはその滅亡の跡を見て数々の原因を指摘しては得々《とくとく》としているが、その原因と称する所のものは、何ぞ図らん、原因ではなくて結果に過ぎないことが多いのである。
秋の終りの最後の薔薇《ばら》に、思いがけなく大輪の花が咲くことがあるように、この島の最後の娘もあるいは素晴らしく美しく怜悧《れいり》な子(もちろん島民の標準においてではあるが)ではあるまいかと、甚《はなは》だ浪漫的な空想を抱いて、私はその女の児を見に行った。そして、すっかり失望した。肥ってこそいたが、うす汚い、愚かしい顔付の、平凡な島民の子である。鈍い目に微《かす》かに好奇心と怯《おび》えとを見せて、この島には珍しい内地人たる私の姿に見入っていた。まだ黥《いれずみ》はしていない。大切にされているとは言っても、フランペシヤだけは出来ると見える。腕や脚一面に糜爛《びらん》した腫物《はれもの》がはびこっていた。自然は私ほどにロマンティストではないらしい。
夕方、私は独り渚《なぎさ》を歩いた。頭上には亭々たる椰子樹が大きく葉扇を動かしながら、太平洋の風に鳴っていた。潮の退いたあとの湿った砂を踏んで行く中に、先刻から私の前後左右を頻《しき》りに陽炎《かげろう》のような・あるいは影のようなものがチラチラ走っていることに気が付いた。蟹《かに》なのである。灰色とも白とも淡褐色ともつかない・砂とほとんど見分けの付かない・ちょっと蝉の脱《ぬ》け殻《がら》のような感じの・小さな蟹が無数に逃げ走るのである。南洋には、マングローブ地帯に多い・赤と青のペンキを塗ったような汐招き蟹なら到る所にいるが、この淡い影のような蟹は珍しい。初めてパラオ本島のガラルド海岸でこれを見た時、一つ一つの蟹の形は見えずに、ただ、自分の周囲の砂がチラチラチラチラと崩れ流れて走るような気がして、幻でも見ているような錯覚に囚《とら》えられたものであった。今この島でそれを二度目に見るのである。私が立停ってしばらくじっ[#「じっ」に傍点]としていると、蟹どもの逃走も止む。素速く走る灰色の幻も、フッと消えるのである。この島の人間どもが死絶えた(それはもうほとんど確定的な事実なのだ)後は、この影のような・砂の亡霊のような小蟹どもが、この島を領するのであろうか。灰白色の揺動く幻だけがこの島の主となる日を考えると、妙にうそ[#「うそ」に傍点]寒い気持がして来た。
薄明というものの無い南国のことで、陽が海に落ちると、すぐに真暗になる。私が淋《さび》しい東海岸から、それでも人家の集まっている西岸へと廻って行った頃は、もう既に夜であった。椰子樹の下の低い民家から、チラチラと灯が洩れる。その一軒に私は近付いて行った。裏の炊事場――パラオ語ではウムというが、此処南方離島では何と呼ぶのか知らない――に、焔が音も無く燃えていた。その上に掛かった鍋には芋か魚でもはいっているのだろう。私が中にはいって行くと、火の傍にいた老婆が驚いて顔を上げた。黥をした、たるんだ[#「たるんだ」に傍点]皮膚が、揺れ動く焔にチラチラと赤く映える。手真似で食を求めると、老婆はすぐに前の鍋の蓋を取って覗いた。だぶだぶ[#「だぶだぶ」に傍点]の汁《つゆ》の中に小魚が三、四匹はいっていたが、まだ煮えないらしい。老婆は立上って奥から木皿を持って来た。タロ芋の切ったのと、燻製らしい魚の切身が載っていた。別に空腹な訳ではない。彼らの食物の種類や味が知りたかっただけである。両方をちょっとつまんで味わって見てから、私は日本語で礼を言って、表へ出た。
浜へ出ると、遥か向うに、私の乗って来た――そうして、ここ数時間の中にはまた乗って立去る――小汽船の燈火が、暗い海に其処《そこ》だけ明るく浮上っていた。ちょうど側を通りかかった島民の男を呼びとめ、カヌーを漕がせて、船に帰った。
汽船《ふね》はこの島を夜半に発《た》つ。それまで汐を待つのである。
私は甲板に出て欄干《てすり》に凭《よ》った。島の方角を見ると、闇の中に、ずっと低い所で、五つ六つの灯が微かにちらついて見える。空を仰いだ。檣《ほばしら》や索綱《つな》の黒い影の上に遥か高く、南国の星座が美しく燃えていた。ふと、古代|希臘《ギリシャ》の或る神秘家の言った「天体の妙《たえ》なる諧音」のことが頭に浮かんだ。賢いその古代人はこう説いたのである。我々を取巻く天体の無数の星どもは常に巨大な音響――それも、調和的な宇宙の構成にふさわしい極めて調和的な壮大な諧音――を立てて廻転しつつあるのだが、地上の我々は太初よりそれに慣れ、それの聞えない世界は経験できないので、竟《つい》にその妙なる宇宙の大合唱を意識しないでいるのだ、と。先刻《さっき》夕方の浜辺で島民ど
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