「る。有難いなと思って、急に真黒になった空を見上げている中に、猛烈なスコールがやって来た。屋根を叩き、敷石を叩き、椰子の葉を叩き、夾竹桃の花を叩き落して、すさまじい音を立てながら、雨は大地を洗う。人も獣も草木もやっと[#「やっと」に傍点]蘇った。遠くから新しい土の香が匂って来る。太い白い雨脚を見ながら、私は、昔の支那《シナ》人の使った銀竹[#「銀竹」に傍点]という言葉を爽かに思い浮かべていた。
雨が霽《あが》ってからしばらくして表へ出て見たら、まだ濡れている敷石路を、向うから先刻の夾竹桃の家の女が歩いて来た。家に寝かし付けて来たのか、赤ん坊は抱いていない。私と擦れ違ったが、視線を向けもしなかった。怒っている顔付ではなく、全然私を認めないような、澄ました無表情な顔であった。
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ナポレオン
「ナポレオンを召捕りに行くのですよ」と若い警官が私に言った。パラオ南方離島通いの小汽船、国光丸の甲板の上である。
「ナポレオン?」
「ええ、ナポレオンですよ」と若い警察官は私の驚きを期待していたように笑いながら言った。「ナポレオンといっても、島民ですがね。島民の子供の名前です。」
島民には随分変った名前が色々とある。昔は基督《キリスト》教の宣教師に命名してもらうことが多かったので、マリヤとかフランシスなどというのが多く、また、以前|独逸《ドイツ》領だった関係からビスマルクなどというのも時にあったが、ナポレオンは珍しい。しかし、私の知っている他の島民の名前、シチガツ(七月に生れたのであろう)、ココロ(心?)、ハミガキなどに比べれば、何といっても堂々たる名前には違いない。もっとも、その余り堂々とし過ぎている点が可笑《おか》しいのには違いないが。
甲板に張られたカンヴァスの日覆の下で、私は色の黒い不良少年、ナポレオンの話を聞いた。
ナポレオンは二年前までコロールの街にいたのだが、公学校三年生の時、年下の女の児にひどく悪性の嗜虐《しぎゃく》症的な悪戯《いたずら》をして、その児をほとんど死に瀕せしめたという。その他これに類する事件を二つ三つ引起し、更に窃盗なども働いたらしく、一昨年十三歳の時に、未成年者への罰として、コロールから遥か離れた南方のS島へ流されたのである。名目上はパラオ諸島に属しているものの、これら南方離島は地質的にも全然別の島だし、住民もずっと東方の中央カロリン系のものなので、言語習慣もパラオとはまるで[#「まるで」に傍点]変っている。さすがの悪少年ナポレオンも最初は大分閉口したらしいが、環境に適応する(というよりこれを克服する)不思議な才能を備えていると見え、半年も経たぬ間に、S島でももてあます跳梁《ちょうりょう》ぶりを示し始めた。島の少年どもを脅迫したり、娘や人妻に怪しからぬ振舞をして困るからとの陳情が、島の村長から大分前にパラオ支庁の方へ来ているという。そんな悪少年は島の内で制裁すればいいと思われるのに、それがどうして、島の成人《おとな》たちが逆に怯《おび》えている有様なのだそうだ。S島は人口も極めて少く、それも年々減少しつつある、いわば廃島に近い島なのだが、僅か十五、六歳の少年一人を抑えかねるほど、住民らも元気が無いのであろうか。
私と今話している警察官がナポレオンを召捕りに[#「ナポレオンを召捕りに」に傍点]来たのは、この少年に改悛《かいしゅん》の情無しと見たパラオ支庁の警務課が、彼の流刑の期間を延長し、その上|流竄地《りゅうざんち》をS島よりも更に南方遥か隔たったT島に変更することに決めたためである。警官は、この用件と、もう一つ僻遠《へきえん》諸離島の人頭税取立てとを兼ねて、一人の島民巡警を引連れ、内地人の乗ることなどほとんど無い・そして年に僅か三回位しか通わないこの離島航路の小船に乗ったのであった。
「ナポレオン先生、大人しくこの船に乗せられて、T島に移りますかな?」と私が言うと、「なあに、いくら悪《わる》だといったって、たかが島民の子供じゃないですか。問題じゃない」と警官がむき[#「むき」に傍点]になって答えた。その声に、今までの会話の調子と違って、意外にも若干の憤激の調子が感じられ、ああ、私の今の言葉は島民の前には絶対権威をもつ警官への多少の侮辱に当るのかも知れぬと気が付いた。
S島がナポレオンの存在に困るからとて、T島にやったのでは、同じような無気力者の寄合に違いないT島でもやはりこの少年に手古摺《てこず》るに違いない。もっと他に何か方法は無いものか。たとえばコロールの街で厳重な監視の下に労役に従わせるとか、そういう風な。それに、一体、この流刑という古風な刑罰を少年に課しているのは、どういう法律なのだろう? 日本人の籍をもたぬ彼ら島民、殊にその未成年者には、どんな法律が設けられてい
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