ンを知っているだけである。
 巨大な榕樹《ようじゅ》が二本、頭上を蔽い、その枝といわず幹といわず、蔦葛《つたかずら》の類が一面にぶらさがっている。
 蜥蜴《とかげ》が時々石垣の蔭から出て来ては、私の様子を窺《うかが》う。ゴトリと足許の石が動いたのでギョッとすると、その蔭から、甲羅のさしわたし[#「さしわたし」に傍点]一尺位の大蟹が匍《は》い出した。私の存在に気が付くと、大急ぎで榕樹の根本の洞穴に逃げ入った。
 近くの・名も判らない・低い木に、燕《つばめ》の倍ぐらいある真黒な鳥がとまって、茱萸《ぐみ》のような紫色の果を啄《ついば》んでいる。私を見ても逃げようとしない。葉洩陽《はもれび》が石垣の上に点々と落ちて、四辺《あたり》は恐ろしく静かである。
 私のその日の日記を見ると、こう書いてある。「忽《たちま》ち鳥の奇声を聞く。再び闃《げき》として声無し。熱帯の白昼、却つて妖気あり。佇立《ちょりつ》久しうして覚えず肌に粟を生ず。その故を知らず」云々《うんぬん》。

 船に帰ってから聞いた所によると、クサイの人間は鼠《ねずみ》を喰うということである。


       ※[#ローマ数字2、1−13−22]
[#地から5字上げ]ヤルート

 とろりと白い脂《あぶら》を流したような朝凪《あさなぎ》の海の彼方、水平線上に一本の線が横たわる。これがヤルート環礁《かんしょう》の最初の瞥見《べっけん》である。
 やがて、船が近づくにつれて、帯と見えた一線の上に、まず椰子《ヤシ》樹が、次いで家々や倉庫などが見分けられて来る。赤い屋根の家々や白く光る壁や、果ては真白な浜辺を船の出迎えにと出てくる人々の小さな姿までが。

 全くジャボールは小綺麗《こぎれい》な島だ。砂の上に椰子と蛸樹《たこのき》と家々とを程良くあしらった小さな箱庭のような。
 海岸を歩くと、ミレ村共同宿泊所、エボン村共同宿泊所などと書かれた家屋があり、その傍で各島民が炊事をしている。此処は全マーシャル群島の中心地とて遠い島々の住民が随時集まってくるので、それらのために各島でそれぞれ共同宿泊所を設けている訳だ。

 マーシャルの島民は、殊にその女は、非常にお洒落《しゃれ》である。日曜の朝は、てんでに色|鮮《あざや》かに着飾って教会へと出掛ける。それも、恐らくは前世紀末に宣教師や尼さんが伝えたに違いない・旧式の・すこぶる襞《ひだ》
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