のに、此の子だけは殆ど裸體である。色が氣味惡く白く、絶えず舌を出して赤ん坊の樣にベロ/\音を立て、涎を垂れ、意味も無く手を振り足を摺る。白痴なのであらう。奧から、女王然たる老婆が喫煙を止めて、何か叱る。烈しい調子である。手に何か白いきれを持ち、それを振つて白痴の子を呼んでゐる。女の子が側へ戻つて行くと、怖《こは》い顏をしながら、それをはかせた。パンツだつたのである。「あの兒、病氣か?」と私が又若い女に聞く。頭ガワルイといふ返辭である。「生れた時からか?」「イイヤ、生レタトキハ良カツタ。」
大變愛想のいい女で、私がバナナを喰べ終ると、犬を喰はぬかと言ふ。「犬?」と聞き返す。「犬」と、女は其の邊に遊んでゐる・痩せた・毛の拔けかかつた・茶色の小犬を指す。一時間もかかれば出來るから、あれを石燒にして馳走しようといふのだ。一匹まる[#「まる」に傍点]の儘、芭蕉の葉か何かに包み、熱い石と砂の中に埋めて蒸燒にするのである。腸《はらわた》だけ拔いた犬が、その儘、足を突張らせ齒をむき出して膳の上に上《のぼ》されるのだといふ。
はふ/\の態で私は退却した。
出がけに見ると、家の入口の左右に、黄と紅と紫との鮮やかなクロトンの亂れ葉が美しく簇《むらが》つてゐた。
※[#ローマ数字4、1−13−24]
[#地から5字上げ]トラック
月曜島には、公學校校長の家族の外に内地人はゐない。
朝、校長の官舍で食事をしてゐると、遠くから歌聲が聞えて來る。愛國行進曲だ。多くの子供等の聲と直ぐに分つた。聲がだん/\近付いて來る。あれは何ですと聞けば、同じ方面の生徒等は一緒に登校させるのだが、其の連中が、合唱しながらやつて來るのだといふ。聲は官舍の近く迄來ると、やんだ。途端に、トマレ! といふ號令が掛かる。玄關から外を見ると二十人程の島民兒童がちやんと二列に縱隊を作つてやつて來てゐるのだ。先頭の一人は紙の日の丸を肩にかついでゐる。其の旗手が、再び、ヒダリ向ケヒダリ! と號令をかけた。一同が校長の家に向つて横隊になる。と、一齊に、オハヨウゴザイマスと言ひながら頭を下げた。それから、又、先頭の腫物だらけの旗手が、ミギ向ケミギ! 前ヘススメ! をかけて、一行は、愛國行進曲の續きを唱ひながら、官舍の隣の學校の方へと曲つて行く。官舍の庭には垣根が無いので、彼等の行進が良く見える。背丈が(恐らく年齡も)恐ろしく不揃ひで、先頭には大變大きいのがゐるが、後の方はひどく小さい。夏島あたりと違つて餘り整つたなりをしてゐる者は無い。みんな、シャツを着てゐるとはいふものの、破れてゐる部分の方が繋がつてゐる部分より多さうなので、男の子も女の子も眞黒な肌が到る所から覗いてゐる。足は勿論全部|跣足《はだし》。學校から給與されるのか、感心に鞄だけは掛けてゐるやうだ。てんでに、椰子の果《み》の外皮を剥《む》いたものを腰にさげてゐるのは、飮料なのである。其等のおんぼろ[#「おんぼろ」に傍点]をぶら下げた連中が、それ/″\足を思ひ切り高く上げ手を大きく振りつつ、あらん限りの聲を張上げて(校長官舍の庭にさし掛かると、又一段と聲が大きくなつたやうだ)朝の椰子影の長く曳いた運動場へと行進して行くのは、中々に微笑《ほほゑ》ましい眺めであつた。
其の朝は、他に二組同じやうな行進が挨拶に來た。
夏島で見た各離島の踊の中では、ローソップ島の竹踊《クーサーサ》が最も目覺ましかつた。三十人ばかりの男が、互ひに向ひあつた二列の環を作り、各人兩手に一本づつ三尺足らずの竹の棒を持つて、之を打合はせつつ踊るのである。或ひは地を叩き、或ひは對者の竹を打ち、エイサツサ、エイサツサと景氣のいい掛聲をかけつつ、※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]《めぐ》り※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]《めぐ》つて踊る。外の環《わ》と内の環とが入違ひに※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]るので、互ひに竹を打合はせる相手が順次に變つて行く譯だ。時に、後向きになり片脚を上げて股の間から背後の者の竹を打つなど、中々曲藝的な所も見せる。撃劍の竹刀の撃合ふやうな音と、威勢のいい掛聲とが入り交つて、如何にも爽やかな感じである。
北西離島のものは、皆、佛桑華や印度素馨の花輪を頭に付け、額と頬に朱黄色の顏料《タイク》を塗り、手頸足頸腕等に椰子の若芽を捲き付け、同じく椰子の若芽で作つた腰簑《こしみの》を搖すぶりながら踊るのである。中には耳朶に孔を穿ち、そこへ佛桑華の花を插した者もある。右手の甲に、椰子若芽を十字形に組合せたものを輕く結び付け、最初、各人が指を細かく顫はせて、之を動かす。すると、忽ち遠くの風のざわめきの樣な微妙な音が起る。之が合圖で踊が始まる。さうして、掌で以て胸や腕のあたりを叩いてパンパンといふ烈しい音を立て、腰をひねり奇聲を發しつつ、多分に性的な身振を交へて踊り狂ふのである。
歌の中でも、踊を伴はないものは、全部といつて良い位、憂鬱な旋律ばかりであつた。其の題名にも、頗るをかしなものが多い。その一例。シュック島の歌。「他人《ひと》の妻のことを思はず、己《おの》が妻のことを考へませう。」
夏島の街で見た或る離島人の耳。幼時から耳朶を伸ばし伸ばしした結果らしく、一尺五寸ばかりも紐の樣に長く伸びてゐる。それを、鎖でも捲くやうに、耳殼に三※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]《みまはり》ほど卷いて引掛けてゐる。さういふ耳をしたのが四人竝んで、すまして洋品店の飾窓を覗いてゐた。
其の離島へ行つたことのある某氏に聞くと、彼等は普通の耳をもつた人間を見ると嗤《わら》ふさうである。顎《あご》の無い人間でも見たかのやうに。
又、斯ういふ島々に永くゐると、美の規準に就いて、多分に懷疑的になるさうだ。ヴォルテエル曰く、「蟾蜍《ひきがへる》に向つて、美とは何ぞやと尋ねて見よ。蟾蜍は答へるに違ひない。美とは、小さい頭から突出た大きな二つの團栗眼《どんぐりまなこ》と、廣い平べつたい口と、黄色い腹と褐色の背中とを有《も》つ雌蟾蜍の謂《いひ》だと。」云々。
※[#ローマ数字5、1−13−25]
[#地から5字上げ]ロタ
斷崖の白い・水の豐かな・非常に蝶の多い島。靜かな晝間、人のゐない官舍の裏に南瓜の蔓が伸び、その黄色い花に、天鵞絨めいた濃紺色の蝶々どもが群がつてゐる。
島民の姿の見えないソンソンの夜の通りは、内地の田舍町のやうな感じだ。電燈の暗い床屋の店。何處からか聞えて來る蓄音機の浪花節。わびしげな活動小屋に「黒田誠忠録」がかかつてゐる。切符賣の女の窶《やつ》れた顏。小舍の前にしやがんでトーキイの音だけ聞いてゐる男二人。幟が二本、夜の海風にはためいてゐる。
タタッチョ部落の入口、海から三十間と離れない所に、チャモロ族の墓地がある。十字架の群の中に、一基の石碑が目につく。バルトロメス・庄司光延之墓と刻まれ、裏には昭和十四年歿九歳とあつた。日本人にして加特力教徒だつた者の子供なのであらう。周圍の十字架に掛けられた花輪どもは悉く褐色に枯れ凋み、海風にざわめく枯椰子の葉のそよぎも哀しい。(ロタ島の椰子樹は最近蟲害のために殆ど皆枯れて了つた。)目に沁みるばかり鮮やかな海の青を近くに見、濤の音の古い嘆きを聞いてゐる中に、私は、ひよいと能の「隅田川」を思ひ浮かべた。母なる狂女に呼ばれて幼い死兒の亡靈が塚の後からチヨコ/\白い姿を現すが、母がとらへようとすると、又フツと隱れて了ふあの場面を。
あとで公學校の島民教員補に聞くと、此の子の兩親(經師屋だつたさうだ)は子供に死なれてから間もなく此の地を立去つたといふことである。
宿舍としてあてがはれた家の入口に、珍しく茘枝《れいし》の蔓がからみ實が熟してはぜて[#「はぜて」に傍点]ゐる。裏にはレモンの花が匂ふ。門外橘花猶的※[#「白+樂」、第3水準1−88−69]、牆頭茘子已※[#「斌」の「武」に代えて「瀾のつくり」、427−2]斑、といふのは蘇東坡(彼は南方へ流された)だが、丁度そつくり其の儘の情景である。但し、昔の支那人のいふ茘枝と我々の呼ぶ茘枝と、同じものかどうか、それは知らない。さういへば、南洋到る所にある・赤や黄の鮮やかなヒビスカスは、一般に佛桑華《ぶつさうげ》といはれてゐるが、王漁洋の「廣州竹枝」に、佛桑華下小※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]廊云々とある、それと同じものかどうか。廣東あたりなら、此の派手な花も大いにふさはしさうな氣がするが。
※[#ローマ数字6、1−13−26]
[#地から5字上げ]サイパン
日曜の夕方。
鳳凰樹の茂みの向ふから、疳高い――それでゐて何處か押し潰されたやうな所のある――チャモロ女の合唱の聲が響いて來る。スペインの尼さんの所の禮拜堂から洩れてくる夕べの讚美歌である。
夜。月が明るい。道が白い。何處やらで單調な琉球蛇皮線の音がする。ブラ/\と白い道を歩いて見た。バナナの大きな葉が風にそよいでゐる。合歡《ねむ》の葉が細かい影をハツキリ道に落してゐる。空地に繋がれた牛が、まだ草を喰つてゐる樣子である。何か夢幻的なものが漂ひ、この白い徑が月光の下を何處迄も續いてゐるやうな氣がする。ベコンベコンといふ間ののびた蛇皮線の音は相變らず聞えるが、何處の家で鳴らしてゐるのか、一向に判らぬ。その中《うち》に、歩いてゐた細い徑が、急に明るい通りに出て了つた。
出た角の所に劇場があつて、其の中から頻りに蛇皮線の音が響いて來る。(だが、之は、先刻から私の聞いて來た音とは違ふ。私の道々聞いて來たのは、劇場のそれの樣な本式の賑かなのではなく、餘り慣れない手が獨りでポツン/\と爪彈《つまびき》してゐたやうな音だつた)此處は沖繩縣人ばかりの爲の――從つて、芝居は凡て琉球の言葉で演ぜられる――劇場である。私は、何といふことなしに、小屋の中へはひつて見た。相當な入りだ。出しものは二つ。初めのは標準語で演ぜられたので、筋は良く判つたが、極めて愚劣なくすぐり[#「くすぐり」に傍点]。第二番目の、「史劇北山風雲録」といふのになると、今度は言葉がさつぱり[#「さつぱり」に傍点]分らない。私にはつきり聽き取れたのは「タシカニ」(此の言葉が一番確實に聞き分けられた。)「昔カラコノカタ」「ヤマミチ」「トリシマリ」等の數語に過ぎぬ。曾てパラオ本島を十日ばかり徒歩旅行した時、途を聞く相手が皆沖繩縣出の農家の人ばかりで、全然言葉が通じないで閉口したことを憶ひ出した。
芝居小舍を出てから、わざ/\※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り道をして、チャモロ家屋の多い海岸通りを歩いて歸つた。この路も亦白い。殆ど霜が下りたやうに。微風。月光。石造のチャモロの家の前に印度素馨が白々と香り、其の蔭に、ゆつたりと牛が一匹|臥《ね》てゐる。牛の傍にいや[#「いや」に傍点]に大きな犬が寢てゐるなと思つて、よく/\見たら山羊であつた。
底本:「中島敦全集第一卷」筑摩書房
1976(昭和51)年3月15日初版発行
※ 片仮名のルビ「トロッツデム」、「ヴェイル」、「カボック」には、小書きを用いました。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2004年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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