ト警官の方へ引張らうとした時、憤然とした面持で、島民巡警を不自由な肱で突き飛ばした。突き飛ばされた巡警の愚鈍さうな顏に、瞬間、驚きと共に一種の怖れの表情が浮かんだのを私は見逃さなかつた。ナポレオンは獨りで警官の後についてタラップを降りた。カヌーに移り、やがてカヌーから岸に下り立ち、二三の島の者と共に警官について椰子林の間に消えて行くのを、私は甲板から見送つた。
 此處で七八人の島民船客が椰子バスケットを獨木舟に積込んで下りて行つたのと入違ひに、ここからパラオへ行かうとする十人餘りが同じ樣な椰子バスケットを擔いで乘込んで來た。無理に大きく引伸ばした耳朶《みみたぶ》に黒光りのする椰子殼製の輪をぶら下げ、首から肩・胸へかけて波状の黥《いれずみ》をした・純然たるトラック風俗である。
 一時間程すると、警官と巡警とが船に戻つて來た。ナポレオン配流のことを島民等に言つて聞かせ、その身柄を村長に託して來たのである。

 出帆は午後になつた。
 例によつて濱邊には見送りの島の者がずらりと竝んで別を惜しんでゐる。(一年に三四囘しか見られない大きな[#「大きな」に傍点]船が發《た》つのだから。)
 陽除の黒眼鏡を掛けて甲板から濱邊を眺めてゐた私は、彼等の列の中に、どうもナポレオンらしい男の子を見付けた。オヤと思つて隣にゐた巡警に確かめて見ると、やはり、ナポレオンに違ひないと言ふ。大分離れてゐるので、表情迄は分らないが、今はもうすつかり[#「すつかり」に傍点]縛《いまし》めを解かれて、心なしか、明るく元氣になつたらしく見える。隣りに自分より少し小柄の子供を二人連れ、時々話し合つてゐるのは、既に――上陸後三時間にして早くも乾兒《こぶん》を作つて了つたのだらうか?
 船が愈※[#二の字点、1−2−22]汽笛を鳴らして船首を外海に向け始めた時、ナポレオンが居竝ぶ島民等と共に船に向つて手を振つたのを、私は確かに見た。あの強情な不貞腐れた少年が、一體どうしてそんな事をする氣になつたものか。島に上つて腹一杯芋を喰つたら、船中の憤懣もハンガー・ストライキも凡て忘れて了つて、たゞ少年らしく人々の眞似をして見たくなつたのだらうか。或ひは、其處の言葉は既に忘れて了つても、矢張パラオが懷しく、そこへ歸る船に向つて、つい手を振る氣になつたのだらうか。どちらとも私には判らない。

 國光丸はひたすら北へ向つて急ぎ、小ナポレオンのためのセント・ヘレナは、やがて灰色の影となり、煙の如き一線となり、一時間後には遂に完全に、青焔燃ゆる大圓盤の彼方に沒し去つた。
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  眞晝

 目がさめた。ウーンと、睡り足りた後の快い伸びをすると、手足の下、背中の下で、砂が――眞白な花珊瑚の屑がサラ/\と輕く崩れる。汀から二間と隔たらない所、大きなタマナ樹の茂みの下、濃い茄子色の影の中で私は晝寢をしてゐたのである。頭上の枝葉はぎつしりと密生《こ》んでゐて、葉洩日も殆ど落ちて來ない。
 起上つて沖を見た時、青鯖色の水を切つて走る朱の三角帆の鮮やかさが、私の目をハツキリと醒めさせた。その帆掛|獨木舟《カヌー》は、今丁度外海から堡礁の裂目にさしかかつた所だつた。陽射しの工合から見れば、時刻は午を少し※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つたところであらう。
 煙草を一服つけ、又、珊瑚屑の上に腰を下す。靜かだ。頭上の葉のそよぎと、ピチヤリ/\と舐めるやうな渚の水音の外は、時たま堡礁の外の濤の音が微かに響くばかり。
 期限付の約束に追立てられることもなく、又、季節の繼ぎ目といふものも無しに、たゞ長閑にダラ/\と時が流れて行く此の島では、浦島太郎は決して單なるお話[#「お話」に傍点]ではない。唯此の昔語《むかしがたり》の主人公が其の女主人公に見出した魅力を、我々が此の島の肌黒く逞しい少女共に見出し難いだけのことだ。一體、時間[#「時間」に傍点]といふ言葉が此の島の語彙の中にあるのだらうか?
 一年前、北方の冷たい霧の中で一體自分は何を思ひ惱んでゐたやら、と、ふと私は考へた。何か、それは遠い前の世の出來事ででもあるやうに思はれる。肌に浸みる冬の感覺も最早|生々《なまなま》しく記憶の上に再現することが不可能だ。と同樣に、曾て北方で己を責めさいなんだ數々の煩ひも、單なる事柄の記憶にとどまつて了ひ、快い忘却の膜の彼方に朧ろな影を殘してゐるに過ぎない。
 では、自分が旅立つ前に期待してゐた南方の至福とは、これなのだらうか? 此の晝寢の目醒めの快さ、珊瑚屑の上での靜かな忘却と無爲と休息となのだらうか?
「いや」とハツキリそれを否定するものが私の中にある。「いや、さうではない。お前が南方に期待してゐたものは、斯んな無爲と倦怠とではなかつた筈だ。それは、新しい未知の環境の中に己《おのれ》を投出して、己《おのれ》の中にあつて未《ま》だ己の知らないでゐる力を存分に試みることだつたのではないのか。更に又、近く來るべき戰爭に當然戰場として選ばれるだらうことを豫想しての冒險への期待だつたのではないか。」
 さうだ。たしかに。それだのに、其の新しい・きびしいものへの翹望は、何時か快い海軟風の中へと融け去つて、今は唯夢のやうな安逸と怠惰とだけが、懶《ものう》く怡《たの》しく何の悔も無く、私を取り圍んでゐる。
「何の悔も無く? 果して、本當に、さうか?」と、又先刻の私の中の意地の惡い奴が聞く。「怠惰でも無爲でも構はない。本當にお前が何の悔も無く[#「何の悔も無く」に傍点]あるならば。人工の・歐羅巴の・近代の・亡靈から完全に解放されてゐるならばだ。所が、實際は、何時何處にゐたつてお前はお前なのだ。銀杏の葉の散る神宮外苑をうそ[#「うそ」に傍点]寒く歩いてゐた時も、島民共と石燒のパンの實《み》にむしやぶりついてゐる時も、お前は何時もお前だ。少しも變りはせぬ。ただ、陽光と熱風とが一時的な厚い面被《ヴェイル》を一寸お前の意識の上にかぶせてゐるだけだ。お前は今、輝く海と空とを眺めてゐると思つてゐる。或ひは島民と同じ目で眺めてゐると自惚れてゐるのかも知れぬ。とんでもない。お前は實は、海も空も見てをりはせぬのだ。たゞ空間の彼方に目を向けながら心の中で 〔Elle est retrouve'e! ―― Quoi? ―― L'Eternite'.  C'est la mer me^le'e au soleil.〕(見付かつたぞ! 何が? 永遠が。陽と溶け合つた海原が)と呪文のやうに繰返してゐるだけなのだ。お前は島民をも見てをりはせぬ。ゴーガンの複製を見てをるだけだ。ミクロネシアを見てをるのでもない。ロティとメルヴィルの畫いたポリネシアの色褪せた再現を見てをるに過ぎぬのだ。そんな蒼ざめた殼をくつつけてゐる目で、何が永遠だ。哀れな奴め!」
「いや、氣を付けろよ」と、もう一つの別な聲がする。「未開は決して健康ではないぞ。怠惰が健康でないやうに。謬《あやま》つた文明逃避ほど危險なものは無い。」
「さうだ」と先刻の聲が答へる。「確かに、未開は健康ではない。少くとも現代では。しかし、それでも、お前の文明[#「お前の文明」に傍点]よりはまだしも溌剌としてゐはしないか。いや、大體、健康不健康は文明未開といふことと係はり無きものだ。現實を恐れぬ者は、借り物でない・己の目でハツキリ視る者は、何時どのやうな環境にゐても健康なのだ。所が、お前の中にゐる『古代支那の衣冠を着けたいかさま[#「いかさま」に傍点]君子』や『ヴォルテエル面《づら》をした狡さうな道化』と來たら、どうだ。先生達、今こそ南洋の暑氣に醉つぱらつてよろめいてゐるらしいが、醒めてゐる時の慘めさを思へば、まだしも、醉つてゐる時の方が、まし[#「まし」に傍点]の樣だな。……」

 見慣れぬ殼をかぶつたちつぽけ[#「ちつぽけ」に傍点]な宿借《やどかり》が三つ四つ私の足許近く迄やつて來たが、人の氣配を感じて立止り、一寸樣子を窺つてから、慌てて又逃げて行つた。
 村は今晝寢の時刻らしい。誰一人濱を通らぬ。海も――少くとも堡礁の内側の水だけは――トロリと翡翠色にまどろんでゐるやうだ。時々キラリと眩しく陽を照返すだけで。たまに鯔《ぼら》らしいのが水の上に跳ねるのを見れば、魚類だけは目覺めてゐるらしい。明るい靜かな・華やかな海と空だ。今、此の海の何處かで、半身《はんしん》を生温《なまぬる》い水の上に乘出したトリイトンが嚠喨と貝殼を吹いてゐる。何處か、此の晴れ渡つた空の下で、薔薇色の泡からアフロディテが生れかかつてゐる。何處か紺碧の波の間から、甘美なサイレンの歌が賢いイタカ人《びと》の王を誘惑しようとしてゐる。……いけない! 又しても亡靈だ。文學、それも歐羅巴文學とやらいふものの蒼ざめた幽靈だ。
 舌打をしながら私は立上る。ほろ苦《にが》いものが暫くの間心の隅に殘つてゐる。
 濕つた渚に踏入ると、無數のやどかり[#「やどかり」に傍点]共、青と赤の玩具のやうな小蟹共が一齊に逃げ出す。五寸程芽の出掛かつた椰子の實の落ちてゐるのを蹴飛ばすと、水の中にころげ入つてボチヤンと音を立てる。
 さういへば、昨夜、奇妙なことがあつた。島民家屋の丸竹を竝べた床《ゆか》の上に、薄いタコ[#「タコ」に傍点]の葉の呉蓙を一枚敷いて寢てゐた時、私は、突然、何の連絡も無く、東京の歌舞伎座の、(それも舞臺ではなく)みやげもの[#「みやげもの」に傍点]屋(あられ[#「あられ」に傍点]や飴や似顏繪やブロマイド等を賣る)の明るい華美な店先と、其の前を行き交ふ着飾つた人波とを思出したのだ。役者の家の紋を散らした派手な箱や罐や手拭や、俳優の似顏の目の隈取りや、それを照らす白い強い電燈の光や、それに見入る娘達や雛妓等の樣子迄もはつきり[#「はつきり」に傍点]、彼女等の髮油の匂までもありあり[#「ありあり」に傍点]と、浮かんで來た。私は、歌舞伎劇そのものも餘り好きではない。みやげもの屋などに何の興味も無い筈である。何故、こんな意味も内容も無い東京生活の薄つぺらな一斷面が、太平洋の濤に圍まれた小さな島の・椰子の葉で葺いた土民小舍の中で、家の周圍《まはり》にズシンと落ちる椰子の實の音を聞いてゐる時に、突然思出されたものか。私には皆目《かいもく》判らぬ。とにかく、私の中には色んな奇妙な奴等がゴチヤ/\と雜居してゐるらしい。淺間しい、唾棄すべき奴までが。

 海岸のタマナ竝木の蔭のはづれ迄來た時、向ふから陽に灼けた砂の上を素裸の小さい男の子が駈けて來た。私の前迄來ると、立止つてキチンと足を揃へ、頭が膝の所まで來る程の丁寧なお辭儀をしてから、食事の用意が出來たことを告げた。私の泊つてゐる島民の家の兒で、今年|八歳《やつつ》になる。痩せた・目の大きい・腹ばかり出た・糜爛性腫瘍《フランペシヤ》だらけの兒である。何か御馳走が出來たか、と聞けば、兄が先刻カムドゥックル魚を突いて來たから、日本流の刺身に作つたといふ。
 少年について一歩日向の砂の上に踏出した時、タマナ樹の梢から眞白な一羽のソホーソホ鳥(島民が斯う呼ぶのは鳴き聲からであるが、内地人は其の形から飛行機鳥と名付けてゐる)が、バタ/\と舞上つて、忽ち、高く眩しい碧空に消えて行つた。
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  マリヤン

 マリヤンといふのは、私の良く知つてゐる一人の島民女の名前である。
 マリヤンとはマリヤのことだ。聖母マリヤのマリヤである。パラオ地方の島民は、凡て發音が鼻にかかるので、マリヤンと聞えるのだ。
 マリヤンの年が幾つだか、私は知らない。別に遠慮した譯ではなかつたが、つい、聞いたことがないのである。とにかく三十に間があることだけは確かだ。
 マリヤンの容貌が、島民の眼から見て美しいかどうか、之も私は知らない。醜いことだけはあるまいと思ふ。少しも日本がかつた所が無く、又西洋がかつた所も無い(南洋で一寸顏立が整つてゐると思はれるのは大抵どちらかの血が混つてゐるものだ)純然たるミクロネシヤ・カナカの典型的な顏だが、私はそれを大變立派だと思ふ。人種としての制限は仕方が無いが、其の制限の中で考へれば、實にのび/\
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