みるばかり鮮やかな海の青を近くに見、濤の音の古い嘆きを聞いてゐる中に、私は、ひよいと能の「隅田川」を思ひ浮かべた。母なる狂女に呼ばれて幼い死兒の亡靈が塚の後からチヨコ/\白い姿を現すが、母がとらへようとすると、又フツと隱れて了ふあの場面を。
 あとで公學校の島民教員補に聞くと、此の子の兩親(經師屋だつたさうだ)は子供に死なれてから間もなく此の地を立去つたといふことである。

 宿舍としてあてがはれた家の入口に、珍しく茘枝《れいし》の蔓がからみ實が熟してはぜて[#「はぜて」に傍点]ゐる。裏にはレモンの花が匂ふ。門外橘花猶的※[#「白+樂」、第3水準1−88−69]、牆頭茘子已※[#「斌」の「武」に代えて「瀾のつくり」、427−2]斑、といふのは蘇東坡(彼は南方へ流された)だが、丁度そつくり其の儘の情景である。但し、昔の支那人のいふ茘枝と我々の呼ぶ茘枝と、同じものかどうか、それは知らない。さういへば、南洋到る所にある・赤や黄の鮮やかなヒビスカスは、一般に佛桑華《ぶつさうげ》といはれてゐるが、王漁洋の「廣州竹枝」に、佛桑華下小※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]廊云々とある、それと同じものかどうか。廣東あたりなら、此の派手な花も大いにふさはしさうな氣がするが。

          ※[#ローマ数字6、1−13−26]
[#地から5字上げ]サイパン
 日曜の夕方。
 鳳凰樹の茂みの向ふから、疳高い――それでゐて何處か押し潰されたやうな所のある――チャモロ女の合唱の聲が響いて來る。スペインの尼さんの所の禮拜堂から洩れてくる夕べの讚美歌である。

 夜。月が明るい。道が白い。何處やらで單調な琉球蛇皮線の音がする。ブラ/\と白い道を歩いて見た。バナナの大きな葉が風にそよいでゐる。合歡《ねむ》の葉が細かい影をハツキリ道に落してゐる。空地に繋がれた牛が、まだ草を喰つてゐる樣子である。何か夢幻的なものが漂ひ、この白い徑が月光の下を何處迄も續いてゐるやうな氣がする。ベコンベコンといふ間ののびた蛇皮線の音は相變らず聞えるが、何處の家で鳴らしてゐるのか、一向に判らぬ。その中《うち》に、歩いてゐた細い徑が、急に明るい通りに出て了つた。
 出た角の所に劇場があつて、其の中から頻りに蛇皮線の音が響いて來る。(だが、之は、先刻から私の聞いて來た音とは違ふ。私の道々聞いて來たのは、劇場のそれの樣な本式の賑かなのではなく、餘り慣れない手が獨りでポツン/\と爪彈《つまびき》してゐたやうな音だつた)此處は沖繩縣人ばかりの爲の――從つて、芝居は凡て琉球の言葉で演ぜられる――劇場である。私は、何といふことなしに、小屋の中へはひつて見た。相當な入りだ。出しものは二つ。初めのは標準語で演ぜられたので、筋は良く判つたが、極めて愚劣なくすぐり[#「くすぐり」に傍点]。第二番目の、「史劇北山風雲録」といふのになると、今度は言葉がさつぱり[#「さつぱり」に傍点]分らない。私にはつきり聽き取れたのは「タシカニ」(此の言葉が一番確實に聞き分けられた。)「昔カラコノカタ」「ヤマミチ」「トリシマリ」等の數語に過ぎぬ。曾てパラオ本島を十日ばかり徒歩旅行した時、途を聞く相手が皆沖繩縣出の農家の人ばかりで、全然言葉が通じないで閉口したことを憶ひ出した。
 芝居小舍を出てから、わざ/\※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り道をして、チャモロ家屋の多い海岸通りを歩いて歸つた。この路も亦白い。殆ど霜が下りたやうに。微風。月光。石造のチャモロの家の前に印度素馨が白々と香り、其の蔭に、ゆつたりと牛が一匹|臥《ね》てゐる。牛の傍にいや[#「いや」に傍点]に大きな犬が寢てゐるなと思つて、よく/\見たら山羊であつた。



底本:「中島敦全集第一卷」筑摩書房
   1976(昭和51)年3月15日初版発行
※ 片仮名のルビ「トロッツデム」、「ヴェイル」、「カボック」には、小書きを用いました。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2004年9月26日作成
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