樂しい倶樂部、乃至演藝場である。
 衣服の法外な贅澤さに引換へて、住宅となると、之は亦、ミクロネシヤの中で最も貧弱だ。第一、床《ゆか》のある家が少い。砂、或ひは珊瑚屑を少し高く積上げ、そこへ蛸樹の葉で編んだ筵を敷いて寢るのである。周圍に四本の柱を立て、蛸樹の葉と椰子の葉とで以てそれを覆へば、それで屋根と壁とは出來上つたことになる。こんな簡單な家は無い。窓も作ることは作るが、至つて低い所に付いてゐるので、丁度便所の汲取口のやうである。この樣な酷い住居にも、尚必ずミシンとアイロンとだけは備へてあるのだ。彼等の衣裳道樂に呆れるよりも、宣教師と結托したミシン會社の辣腕に呆れる方が本當なのかも知れないが、とにかく、驚くべきことである。勿論、ジャボールの町にだけは、床《ゆか》を張つた・木造の家も相當にあるが、さうした床のある家には必ず縁の下に筵を敷いて住んでゐる住民がゐるのだ。マーシャル特産の蛸葉の纖維で編んだ團扇、手提籠の類は、概ね斯うした縁の下の住民の手内職である。

 同じヤルート環礁の内のA島へ小さなポンポン蒸汽で渡つた時、海豚の群に取圍まれて面白かつたが、少々危いやうな氣もした。といふのは、おどけた海豚共が調子に乘つてはしやぎ[#「はしやぎ」に傍点]※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り、小艇の底を潛つては右に左に現れ、うつかりすると船が持上りさうに思はれたからである。時々二三尾揃つて空中に飛躍する。口の長く細く突出た・目の小さい・ふざけた顏の奴共だ。船と競爭して、到頭島の極く近く迄ついて來た。
 島へ上つて見ると、丁度、ジャボール公學絞の補習科の生徒がコプラの採取作業をやつてゐる。増産運動の一つなのだ。島内を一巡して見たが、島中、椰子と蛸樹と麺麭樹とがギツシリ密生してゐる。熟した麺麭の果が澤山地上に落ち、その腐つてゐるのへ蠅が眞黒にたかつてゐる。側を通る我々の顏にも手にも忽ちたかつてくる。とても堪らない。途で一人の老婆が麺麭の實の頭に穴を穿ち、八つ手に似た麺麭の葉を漏斗代りに其處へ突込み、上からコプラの白い汁を絞つて流し込んでゐた。斯うして石燒にすると、全體に甘味が浸みこんでゐて大變旨いのださうである。

 支廳の人の案内でマーシャルきつての大酋長カブアを訪ねた。カブア家はヤルートとアイリンラプラプとの兩地方に跨がる古い豪家で、マーシャル古譚詩の中には屡※[#二の字点、1−2−22]出て來る名前ださうである。
 瀟洒たるバンガロー風の家だ。入口に、八島嘉坊と漢字で書いた表札が掛かつてゐて、ヤシマカブアと振り假名が附けてある。此の地方の風と見えて、廚房だけは別棟になつてゐるが、それが四面皆竪格子で圍んだ妙な作りである。
 初め主人が不在とて、若い女が二人出て來て接待した。一見日本人との混血と分る顏立だが、二人とも内地人の標準から見ても確かに美人である。二人が姉妹だといふことも直ぐに判つた。姉の方がカブアの細君なのだといふ。
 程なく主人のカブアが呼ばれて歸つて來た。色は黒いが一寸インテリ風の・三十前後の青年で、何處か絶えずおど/\してゐる樣な所が見える。日本語は此方の言葉が辛うじて理解できる程度らしく、自分からは何一つ言出さずに、たゞ此方の言ふことに一々大人しく相槌を打つだけである。これが年收五萬乃至七萬に上るといふ(椰子の密生した島を有《も》つてゐるといふだけで、コプラ採取による收入が年にその位あるのだ)大酋長とは一寸思はれなかつた。椰子水とサイダーと蛸樹の果とをよばれて、殆ど話らしい話もせずに(何しろ向ふは何一つしやべらないのだから)家を辭した。
 歸途、案内の支廳の人に聞く所によれば、カブア青年は最近(私が先刻見た)妻の妹に赤ん坊を生ませて大騷ぎを引起したばかりだとのことである。

 早朝、深く水を湛へた或る巖蔭で、私は、世にも鮮やかな景觀《ながめ》を見た。水が澄明で、群魚游泳の状《さま》の手に取る如く見えるのは、南洋の海では別に珍しいことはないのだが、此の時程、萬華鏡の樣な華やかさに打たれたことは無い。黒鯛ほどの大きさで、太く鮮やかな數本の竪縞を有《も》つた魚が一番多く、岩蔭の孔《あな》らしい所から頻りに出沒するのを見れば、此處が彼等の巣なのかも知れない。此の外に、透きとほらんばかりの淡い色をした・鮎に似た細長い魚や、濃緑色のリーフ魚や、ひらめ[#「ひらめ」に傍点]の如き巾の廣い黒いやつ[#「やつ」に傍点]や、淡水産のエンヂェル・フィッシュそつくりの派手な小魚や、全體が刷毛の一刷《ひとはき》の樣に殆ど鰭と尾ばかりに見える褐色の小怪魚、鰺に似たもの、鰯に似たもの、更に水底を匍ふ鼠色の太い海蛇に至る迄、其等目も絢《あや》な熱帶の色彩をした生物どもが、透明な薄翡翠色の夢の樣な世界の中で、細鱗を閃かせつゝ無心に游優嬉戲して
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