キと。何をあれに聞かせても通じんのです。しかし、そんな事があるもんでせうかな。僅か二年の間に自分の生れた土地の言葉をみんな忘れて了ふなんてことが。」
 二年間此の島でトラック語ばかり使つてゐたために、ナポレオンはパラオ語を忘れ果てたといふ。公學校で二年程習つた日本語を忘れたといふのなら、之は解る。併し、生れた時から使つて來たパラオ語迄忘れるとは? 私は首を傾けた。だが、萬更、有り得ないことではないかも知れんなと思つた。しかし、又一方、警官の訊問を避けるための僞りでないと誰が知らう。「さあね」と私はもう一度首を傾《かし》げた。
「わし[#「わし」に傍点]もね、奴が嘘をついとるんぢやなからうかと大分責めて見たんですがな、やつぱり本當に忘れて了つたらしい所もあるし。」と警官はさう言ひながら額の汗を拭ひ、此方に背中を向けてゐるナポレオンの方を忌々《いまいま》しさうに見遣つた。「とにかく、不貞腐れた、生意氣な奴ですよ。まだ子供のくせに、こんな強情な野郎は無い。」

 午後三時、愈※[#二の字点、1−2−22]出帆だ。ゴト/\いふエンヂンの音と共に船體が輕く上下に搖れ出した。
 私は警官と甲板の椅子に凭つて(我々二人だけが一等船客だつたので何時も一緒にゐない譯に行かないのである)島の方を見てゐた。其の時、我々の傍に立つてゐた例の島民巡警が「アレ!」と頓驚な聲を出して、我々の背後を指《ゆび》さした。直ぐ其の方向に振向いた時、私は、今しも白塗の欄干《てすり》を越えて海の上へと躍つた島民少年の後姿を見た。慌てて我々は欄干の所へ駈け寄つた。既に脱走者は船から七八間離れた渦の中を船尾を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて鮮やかに島の方へと泳いでゐた。
「停めろ! 船を停めろ!」と警官が喚いた。「ナポレオンが逃げたぞ。」
 忽ち船の上はごつた返し[#「ごつた返し」に傍点]の騷ぎとなつた。船尾にゐた二人の島民水夫が其の場から海に跳び込んで脱走者の後を追うた。二人とも二十歳を越えたばかりと思はれる逞しい青年だ。脱走者と追跡者との距離は見る/\縮まつて行くやうに見えた。濱邊で船を見送つてゐた島の連中も漸く氣が付いたらしく、ナポレオンの泳ぎ着かうとする方角に向つて、白い砂の上をバラ/\と駈けて行く。
 思ひがけない活劇に、私は欄干《てすり》に凭つてかたづ[#「かたづ」に傍点]を呑んだ。之は又、目も醒めるばかり鮮やかな色彩の世界を背景にした南海の捕りものである。私は餘程嬉しさうな顏をして眺めてゐたに違ひない。「面白いですなあ!」と聲を掛けられて氣が付くと、何時の間にか隣に船長が(どういふ譯か、此の船長は何時見ても多少の酒氣を帶びてゐないことはない)來てゐたのである。彼も亦のんびりとパイプの煙をふかしながら、映畫でも見るやうに樂しげに海の活劇を見下してゐた。巧くナポレオンが濱に泳ぎ着いて、さて島内の森の中へでも逃げおほせて呉れればいいと、どうやらそんな事を考へてゐたらしい自分に氣が付いて、私は苦笑した。
 だが、結果は案外あつけ[#「あつけ」に傍点]なかつた。結局、汀から二十間ばかりの・丈の立つ所迄來た時、ナポレオンは追ひ付かれた。竝よりも身體の小さい少年一人と、堂々たる體格の青年二人とでは、結果は問ふ迄もない。少年は二人に兩腕を取られて引立てられ、濱に上つた迄は見えたが、島の連中が忽ち取卷いて了つたので、あとは良く見えなくなつた。
 警官は酷く機嫌を惡くしてゐた。
 三十分後、殊勳の二水夫に押へられたナポレオンが再び島のカヌーで船に連れ戻された時、眞先に彼は手酷い平手打を三つ四つ續けざまに喰はせられた。さて、それから今度は(先刻は繩をつけなかつたのだ)兩手兩足を船の麻繩で縛り上げられた上、隅つこの・島民船員の食料が詰め込んであるらしい椰子バスケットと飮用の皮剥若椰子との間にころがされた。
「畜生。餘計な世話を燒かせやがる!」と警官は、それでも漸く安堵したやうに、さう言つた。

 翌日も完全な上天氣であつた。一日陸を見ずに、船は南へ走つた。
 漸く夕方近くなつて、無人島H礁の環礁の中に入つた。無人島に船を寄せるのは、萬一漂流者がありはせぬかを調べる爲だらうと私は思つた。何處かの命令航路の規約にそんな事が書いてあつたのを憶えてゐたからである。所が實際は、そんな甘い人道的な考へ方からではなかつた。此處での高瀬貝採取權を獨占してゐる南洋貿易會社からの頼みで、密漁者を取締るのが目的なのだといふ。
 甲板の上から見ると、夥しい海鳥の群が此の低い珊瑚礁島を蔽うてゐる。船員の二三に誘はれ上陸して見て、更に驚いた。岩の陰も木の上も砂の上も、たゞ一面の鳥、鳥、鳥、それから鳥の卵と鳥の糞とである。さうして、其等無數の鳥共は我々が近寄つても逃げようとはしない。捕へようとする
前へ 次へ
全20ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中島 敦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング