黶tの中にあつて未《ま》だ己の知らないでゐる力を存分に試みることだつたのではないのか。更に又、近く來るべき戰爭に當然戰場として選ばれるだらうことを豫想しての冒險への期待だつたのではないか。」
さうだ。たしかに。それだのに、其の新しい・きびしいものへの翹望は、何時か快い海軟風の中へと融け去つて、今は唯夢のやうな安逸と怠惰とだけが、懶《ものう》く怡《たの》しく何の悔も無く、私を取り圍んでゐる。
「何の悔も無く? 果して、本當に、さうか?」と、又先刻の私の中の意地の惡い奴が聞く。「怠惰でも無爲でも構はない。本當にお前が何の悔も無く[#「何の悔も無く」に傍点]あるならば。人工の・歐羅巴の・近代の・亡靈から完全に解放されてゐるならばだ。所が、實際は、何時何處にゐたつてお前はお前なのだ。銀杏の葉の散る神宮外苑をうそ[#「うそ」に傍点]寒く歩いてゐた時も、島民共と石燒のパンの實《み》にむしやぶりついてゐる時も、お前は何時もお前だ。少しも變りはせぬ。ただ、陽光と熱風とが一時的な厚い面被《ヴェイル》を一寸お前の意識の上にかぶせてゐるだけだ。お前は今、輝く海と空とを眺めてゐると思つてゐる。或ひは島民と同じ目で眺めてゐると自惚れてゐるのかも知れぬ。とんでもない。お前は實は、海も空も見てをりはせぬのだ。たゞ空間の彼方に目を向けながら心の中で 〔Elle est retrouve'e! ―― Quoi? ―― L'Eternite'. C'est la mer me^le'e au soleil.〕(見付かつたぞ! 何が? 永遠が。陽と溶け合つた海原が)と呪文のやうに繰返してゐるだけなのだ。お前は島民をも見てをりはせぬ。ゴーガンの複製を見てをるだけだ。ミクロネシアを見てをるのでもない。ロティとメルヴィルの畫いたポリネシアの色褪せた再現を見てをるに過ぎぬのだ。そんな蒼ざめた殼をくつつけてゐる目で、何が永遠だ。哀れな奴め!」
「いや、氣を付けろよ」と、もう一つの別な聲がする。「未開は決して健康ではないぞ。怠惰が健康でないやうに。謬《あやま》つた文明逃避ほど危險なものは無い。」
「さうだ」と先刻の聲が答へる。「確かに、未開は健康ではない。少くとも現代では。しかし、それでも、お前の文明[#「お前の文明」に傍点]よりはまだしも溌剌としてゐはしないか。いや、大體、健康不健康は文明未開といふことと係はり無き
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