A小ナポレオンのためのセント・ヘレナは、やがて灰色の影となり、煙の如き一線となり、一時間後には遂に完全に、青焔燃ゆる大圓盤の彼方に沒し去つた。
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  眞晝

 目がさめた。ウーンと、睡り足りた後の快い伸びをすると、手足の下、背中の下で、砂が――眞白な花珊瑚の屑がサラ/\と輕く崩れる。汀から二間と隔たらない所、大きなタマナ樹の茂みの下、濃い茄子色の影の中で私は晝寢をしてゐたのである。頭上の枝葉はぎつしりと密生《こ》んでゐて、葉洩日も殆ど落ちて來ない。
 起上つて沖を見た時、青鯖色の水を切つて走る朱の三角帆の鮮やかさが、私の目をハツキリと醒めさせた。その帆掛|獨木舟《カヌー》は、今丁度外海から堡礁の裂目にさしかかつた所だつた。陽射しの工合から見れば、時刻は午を少し※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つたところであらう。
 煙草を一服つけ、又、珊瑚屑の上に腰を下す。靜かだ。頭上の葉のそよぎと、ピチヤリ/\と舐めるやうな渚の水音の外は、時たま堡礁の外の濤の音が微かに響くばかり。
 期限付の約束に追立てられることもなく、又、季節の繼ぎ目といふものも無しに、たゞ長閑にダラ/\と時が流れて行く此の島では、浦島太郎は決して單なるお話[#「お話」に傍点]ではない。唯此の昔語《むかしがたり》の主人公が其の女主人公に見出した魅力を、我々が此の島の肌黒く逞しい少女共に見出し難いだけのことだ。一體、時間[#「時間」に傍点]といふ言葉が此の島の語彙の中にあるのだらうか?
 一年前、北方の冷たい霧の中で一體自分は何を思ひ惱んでゐたやら、と、ふと私は考へた。何か、それは遠い前の世の出來事ででもあるやうに思はれる。肌に浸みる冬の感覺も最早|生々《なまなま》しく記憶の上に再現することが不可能だ。と同樣に、曾て北方で己を責めさいなんだ數々の煩ひも、單なる事柄の記憶にとどまつて了ひ、快い忘却の膜の彼方に朧ろな影を殘してゐるに過ぎない。
 では、自分が旅立つ前に期待してゐた南方の至福とは、これなのだらうか? 此の晝寢の目醒めの快さ、珊瑚屑の上での靜かな忘却と無爲と休息となのだらうか?
「いや」とハツキリそれを否定するものが私の中にある。「いや、さうではない。お前が南方に期待してゐたものは、斯んな無爲と倦怠とではなかつた筈だ。それは、新しい未知の環境の中に己《おのれ》を投出して、己《おの
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