3水準1−93−66]戲への耽溺も再び始まつた。雌伏時代とは違つて、今度こそ思ひ切り派手に此の娯しみに耽る事が出來る。金と權勢とに※[#「厭/(餮−殄)」、第4水準2−92−73]かして國内國外から雄※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の優れたものが悉く集められた。殊に、魯の一貴人から購め得た一羽の如き、羽毛は金の如く距《けづめ》は鐵の如く、高冠昂尾《かうくわんかうび》、誠に稀に見る逸物である。後宮に立入らぬ日はあつても、衞侯が此の※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の毛を立て翼を奮ふ状を見ない日は無かつた。
一日、城樓から下の街々を眺めてゐると、一ヶ所甚だ雜然とした陋穢な一劃が目に付いた。侍臣に問へば戎人の部落だといふ。戎人とは西方化外の民の血を引いた異種族である。眼障りだから取拂へと莊公は命じ、都門の外十里の地に放逐させることにした。幼を負ひ老を曳き、家財道具を車に積んだ賤民共が陸續と都門の外へ出て行く。役人に追立てられて慌て惑ふ状《さま》が、城樓の上からも一々見て取れる。追立てられる群集の中に一人、際立つて髮の美しく豐かな女がゐるのを、莊公は見付けた。直ぐに人を遣つて其の女を呼ばせる。戎人|己氏《きし》なる者の妻であつた。顏立は美しくなかつたが、髮の見事さは誠に輝くばかりである。公は侍臣に命じて此の女の髮を根本《ねもと》から切取らせた。後宮の寵姫の一人の爲にそれで以て髢《かもじ》を拵へようといふのだ。丸坊主にされて歸つて來た妻を見ると、夫の己氏は直ぐに被衣を妻にかづかせ、まだ城樓の上に立つてゐる衞侯の姿を睨んだ。役人に笞打たれても、容易に其の場を立去らうとしないのである。
冬、西方からの晉軍の侵入と呼應して、大夫・石圃《せきほ》なる者が兵を擧げ、衞の公宮を襲うた。衞侯の己を除かうとしてゐるのを知り先手を打つたのである。一説には又、太子疾との共謀によるのだともいふ。
莊公は城門を悉く閉ぢ、自ら城樓に登つて叛軍に呼び掛け、和議の條件を種々提示したが石圃は頑として應じない。やむなく寡い手兵を以て禦がせてゐる中に夜に入つた。
月の出ぬ間の暗さに乘じて逃れねばならぬ。諸公子・侍臣等の少數を從へ、例の高冠昂尾の愛※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]を自ら抱いて公は後門を踰《こ》える。慣れぬこととて足を踏み外して墜ち、したたか股を打ち脚を挫いた
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