きて流に横たわり、水辺を迷うが如し。大国これを滅ぼし、将《まさ》に亡びんとす。城門と水門とを閉じ、乃《すなわ》ち後より踰《こ》えん」とある。大国とあるのが、晋であろうことだけは判るが、其の他の意味は判然しない。兎に角、衛侯の前途の暗いものであることだけは確かと思われた。
 残年の短かさを覚悟させられた荘公は、晋国の圧迫と太子の専横《せんおう》とに対して確乎たる処置を講ずる代りに、暗い予言の実現する前に少しでも多くの快楽を貪ろうと只管《ひたすら》にあせるばかりである。大規模の工事が相継いで起され過激な労働が強制されて、工匠石匠等の怨嗟《えんさ》の声が巷《ちまた》に満ちた。一時忘れられていた闘※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]戯への耽溺も再び始まった。雌伏時代とは違って、今度こそ思い切り派手に此の娯しみに耽ることが出来る。金と権勢とに※[#「厭/食」、第4水準2−92−73]《あ》かして国内国外から雄※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の優れたものが悉く集められた。殊に、魯《ろ》の一貴人から購め得た一羽の如き、羽毛は金の如く距《けづめ》は鉄の如く、高冠昂尾《こうかんこうび》、誠に稀に見る逸物である。後宮に立入らぬ日はあっても、衛侯が此の※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の毛を立て翼を奮う状を見ない日は無かった。

 一日、城楼から下の街々を眺めていると、一ヶ所甚だ雑然とした陋穢《ろうわい》な一劃が目に付いた。侍臣に問えば戎人の部落だという。戎人とは西方の化外《けがい》の民の血を引いた異種族である。眼障りだから取払えと荘公は命じ、都門の外十里の地に放逐させることにした。幼を負い老を曳き、家財道具を車に積んだ賤民共が陸続《りくぞく》と都門の外へ出て行く。役人に追立てられて慌て惑う状《さま》が、城楼の上からも一々見て取れる。追立てられる群集の中に一人、際立って髪の美しく豊かな女がいるのを、荘公は見付けた。直ぐに人を遣って其の女を呼ばせる。戎人|己氏《きし》なる者の妻であった。顔立は美しくなかったが、髪の見事さは誠に輝くばかりである。公は侍臣に命じて此の女の髪を根本《ねもと》から切取らせた。後宮の寵姫の一人の為にそれで以て髢《かもじ》を拵《こしら》えようというのだ。丸坊主にされて帰って来た妻を見ると、夫の己氏は直ぐに被衣《かずき》を妻にかずかせ、まだ城楼の
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